2019年9月8日のメッセージ

マタイによる福音書第12章1節~8節

12:1

そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。

12:2

パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。

12:3

そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。

12:4

すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。

12:5

また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。

12:6

あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。

12:7

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。

12:8

人の子は安息日の主である」。

 

「安息日の主」

 

今回は上記の箇所から、「安息日の主」ということで共に考えてみたいと思います。ここにパリサイ人という人たちが出てきます。これは人種ではなくて、それぞれの町にあったシナゴグという会堂で、律法や先祖からの言い伝えを厳格に守る宗教的な教師たちのことです。でもこの章では、そのパリサイ人たちがイエス様を非難し、対決している様子が描かれています。

イエス様一行が麦畑を通りかかった時に、お腹が空いた弟子たちが、おもむろに麦の穂を摘んで食べはじめたことが書かれています。パリサイ人たちはそれを非難しましたが、「人の畑の麦をとって勝手に食べた!泥棒だ!」と非難したわけではありません。実は、当時の習慣では許されていたことです。彼らが問題にしたのは、それを「安息日」に行ったということでした。安息日はすべての働きを休む日であるにもかかわらず、麦を摘んだ(=収穫をした)、そしてその殻をむいた(=脱穀をした)、つまり、労働をした。それは神様に背く罪だとなったわけです。それに対して、イエス様が二つの事例を挙げて応えておられますので、その二つから、「安息日」について考えてみましょう。

 

1. 緊急の必要を満たす安息日

最初に、「緊急の必要を満たす安息日」ということでお話したいと思います。3節を見ますと、イエス様が「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか」と言われています。これは、サムエル記上21章3~6節に書かれている物語です。後にイスラエル二代目の王となるダビデですが、この時はまだ、サウル王に命をねらわれて逃げていました。その途中、ノブという町の祭司アヒメレクのところに身を寄せ、そこで、祭壇に供えられていたパンで空腹を満たしたのです。本当はそのパンは祭司しかたべられないものでした。またその日は、安息日でした。つまり、ダビデと仲間たちは、安息日に、祭司しか食べられないパンを食べてしまったのです。しかし聖書は、そのことを罪としていませんし、神様もお怒りになりませんでした。むしろ神様は、そのようにしてダビデたちの緊急の必要を満たして下さって、助けて下さったのです。

イエス様は、安息日とはまさにそのような日であるのだと述べました。安息日を形式的に守ることよりも、人間の緊急の必要を満たすことが優先するのだ。そう主張されたのです。もっと言いますと、この安息日において、神様というお方は、緊急の必要をかかえている私たちを招いていて下さり、そしてその必要を満たして下さるお方なんだよ、ということです。当時の習慣では畑の麦の穂を摘んで食べることは許されていましたが、それは特に貧しくて飢えている者を助けるための、まさにあわれみの律法でした。イエス様は7節で、『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』と言われていますが、神様は飢え渇いている私たちを、あわれみをもって迎えて下さり、その緊急の必要を満たして下さるのです。

私たちはこの礼拝に集うに当たって、自分が緊急の必要がある者、この弟子たちで言うなら「空腹」な者であることを覚えるべきだと思うのです。これは、私たちの魂の問題です。実は私たちの魂は、神様の御言葉に飢え渇いている状態なんだ。私たちは、そのことをもっと自覚する必要があると思うのです。身体のご飯は毎日食べます。三食食べます。でも、魂のための心のごはん、聖書の御言葉はどうでしょうか。体のご飯を食べないとお腹が空くとか、力が出ないとか、ちゃんと自覚症状が出ますからすぐに対応しますけれど、心のごはんが足りなくても、意外と普通に過ごせてしまいませんか。でも本当は、心のごはんも毎日必要なんです。自分の信仰が弱る時、また、神様への信頼が揺らぐ時、やっぱりそこには私たちの魂が飢え渇いているという、緊急の必要があるのです。分かりにくいからこそ、意識してその必要を満たそうとすることが大切なのではないでしょうか。

以前、小学生キャンプの時に、当時はその頃宝塚におられた先生がリーダーだったんですが、その先生が熱中症に注意しましょうっていうことを言われました。しかも、いろいろネットで調べて、何枚も資料を用意して話されたのです。実はその年に、先生ご自身が熱中症にかかってしまったのです。キャンプ場で草刈りをしている時に、ちゃんと水分補給をしなかったものですから、熱中症になってしまったんですね。からだに水分が足りていないのに、自分の自覚がなくて、大丈夫と思ってやっていたら、大変なことになってしまう。私たちの魂も同じだと思うのです。自分の魂は緊急の必要がある者であることを自覚して、魂の渇きが症状となって出る前に、満たしていただくのです。

でも神様は、感謝な事に、あわれみの神様です。そういう私たちの必要をご存じでいて下さり、満たして下さるためにこの礼拝を備えて下さっているのです。

 

2. 礼拝のための安息日

次に、「礼拝のための安息日」ということで考えてみましょう。ダビデの話に続いて、イエス様はもうひとつのことを語っておられます。5節をお読みしますと、「また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか」とありますね。これは何のことを言っているかといいますと、そもそも安息日の起源は、神様が6日間で世界をお造りになり、7日目に休まれたことに由来します。ですからユダヤ人たちは、一週間の最後の日、土曜日を安息日として休み、神様を礼拝しました。ですから仕事は休みますが、何もしないわけではなく、神殿に行って礼拝をささげていました。

でも神殿には、その礼拝をささげるために奉仕する人が必要です。それが祭司たちです。そして祭司たちにとっては、その奉仕をすることが仕事なわけです。とはいえ、祭司に向かって、「今日は安息日です。あなたがやっていることは仕事ですから、認められません。仕事をしてはいけないのです」とは言いません。イエス様が言っておられるのはそういうことです。厳密に言えば、働いてはいけないという安息日の規則を破っているのかもしれないけれども、でも祭司は特例で認められていました。なぜならば、安息日の本来の目的は、労働を禁止することにあるのではなくて、神様を礼拝することにあったからです。安息日というのは、とにもかくにも、礼拝をするということを最優先にする日であるということを、イエス様は主張されたのです。これは、パリサイ人たちからすれば、思いもよらない新しい解釈です。でもイエス様は、「宮よりも大いなる者がここにいる」と言って、ご自身が神の御子であり、神殿に勝る権威があることを示されることによって、この解釈こそ正しい解釈であると主張されたわけです。仕事をしたのか、それとも休んだのか、ということではなくて、安息日に本当に礼拝をささげているのか。そこがここで問われていることなのです。

あらためて、私たちの礼拝ということを考えてみましょう。今は安息日ではなく、日曜日ですが、この日曜日を、とにもかくにも神様を礼拝する日としているでしょうか。その場にいるということは、ちゃんと礼拝していると言えるでしょう。でも、礼拝に来ていれば良いというものでもないですよね。私は小学5年生で洗礼を受けましたけれども、それから大人の礼拝に出るようになりました。正確には“出させ”られました。ですから、小学生の“のぶくん”にはつまらない時間でありました。それで、当時の聖書は今と違って表紙が堅かったのですが、手元にボールペンがありまして、その堅い表紙の内側に、ちょこちょこと落書きしていたんです。ところがふとした拍子に、ボールペンがグッとめり込みました。そうしたら、これをもっと突っ込んでみたいという衝動に駆られまして、ボールペンをグリグリしていたら、そのうち、どうしてもこのへこみを貫通させたくなってしまいまして、とうとうボールペンを貫通させて穴を開けてしまいました。それが隣に座っていた大人に見つかりまして、「何やってんの!」って怒られたということがありました。礼拝には出ていましたが、自分が「これをしたい!」ということで頭いっぱいな“のぶくん”の姿は、とうてい礼拝しているとは言えません。

礼拝とは何か。近藤勝彦という先生は、『礼拝と日々の生活』という本の中で、「礼拝とは、いま、この場所で、神の御前にあること」だと述べておられます。私たちが礼拝に集う時、説教者を超えて、目には見えないけれども確かにここにおられる、神様の御前に立っている。その思いに一途に生きることが、大切ではないかと思うのです。自分の思いに心を向けるのではなく、神様に心を向ける。説教だけが礼拝ではありません。礼拝前の黙想から始まって、祝祷に至るまで、ひとつひとつのプログラムを通して神様を想う。そして、この偉大な神様の前に立つ自分ってどうなのか、ふさわしいのか、そうでないのか、自分を見つめ直す。それが礼拝なのです。

でもそうやって自分を見つめ直した時に気付かされるのは、弱く罪深い自分ではないでしょうか。こんな自分は、神様の御前に立つにはふさわしくない。本気で自分と向き合ったら、そう思わされます。でもイエス様は、「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と言われました。これは、神様があわれみをもって、私たちを受けとめて下さっているということです。かつては礼拝をささげるごとに、生け贄をささげ、自分の罪の赦しのために、動物の命を注ぎ出す必要がありました。でも今は違います。安息日の土曜日ではなくて、日曜日に礼拝をささげますが、日曜日はイエス様が復活された日です。まさにイエス様が、私たちの罪のための生贄となって命を投げ出して下さったからこそ、今わたしはこうして神様の前に立つことができる!ひとり子イエス様を送って下さった神様のあわれみがある。だから私たちは、こうして礼拝をささげることができるのです。

私たちはその事を心に留めて、とにもかくにも神様の前に立ち、神様のあわれみを一心に感じて受けとめ、今日も、感謝をもってここから遣わされてまいりましょう。