8月25日のメッセージ

「マタイによる福音書第7章24節~29節」

7:24

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

7:25

雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。

7:26

また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

7:27

雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

7:28

イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。

7:29

それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

 

「御言葉を聞いて行う者に」

 

今月の頭のことなんですけれど、小学生キャンプに参加した時に、スマートフォンが手から滑り落ちて、なんと画面がバリバリにひび割れてしまったんですね。保護シートを貼っていたので飛び散ることはなかったんですが、端の方はシートがかかっていなくて、そこをさわると手を切りそうでしたので、お店に持って行って修理してもらいました。修理代がかかったのは痛かったですが、40分ぐらいで出来上がってすっかり元通りになったんですね。やっぱり綺麗になって本来の姿を取り戻したのは、嬉しかったですね。 

先日祈祷会のメッセージで出てきたんですが、コリント人への第二の手紙13章11節に「全き者となりなさい」という表現が出てきます。それを聞いた率直な感想としては、「聖書の神さまを信じる人は、パーフェクトな人にならなあかんの?!」と言いたくなりますよね。でもこれは、修理するとか、本来の姿に戻すという意味なんだそうです。私たちは欠けだらけの弱い者です。でも神さまが、私たちを修理して、本来の姿を取り戻させて下さるのです。私たちが今礼拝をささげている神さまは、そういう神さまです。感謝をもって御言葉に聞き、御言葉のお取り扱いをいただいて、今日もここから遣わされてゆきたいと思うのです。

 

さて、イエスさまの山上の説教を共に学んできましたが、いよいよ今日が最後になるんですね。今読んでいただいたのでおわかりだと思いますが、イエスさまは最後にひとつの譬え話を使ってお話になり、このメッセージを締めくくっておられます。「かしこい人とおろかな人」といわれる譬え話で、私も子どもの頃からよく聞いていました。また、その賛美がとても印象に残っています。しかしあらためて考えてみるときに、「これらの言葉を聞いて行うもの」が、なぜ岩の上に家を建てる人なのか、分かるようで分からない気もするんですね。今日はここから、「御言葉を聞いて行う者に」と題して、ふたつのことを考えてみたいと思います。

 

1. 嵐について

まず、「嵐について」ということで、考えてみたいと思います。このイエスさまの譬え話では、賢い人と愚かな人の家の建て方を比べているわけですが、その両者に共通していることがあります。それは自分の家を建てるということと、もうひとつは24節と27節にありますように、そこに「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつける」ということです。まさに嵐が来るということですよね。アイドルグループの“嵐”が来る!ということであれば、大喜びだという方もいらっしゃると思いますけれども、しかし台風のような嵐がやってくるとなったら、これは大変なことです。

それこそ昨年の9月は、この大阪でも台風で大きな被害が出ました。まさに「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつける」ということが実際に起こりました。自分が遭遇して初めてその恐ろしさや大変さを思い知ったようなことなんですが、そういう中で私たちが心に思うことは、なるべくそのような嵐には遭いませんように…ということだと思うんですね。また、実際の嵐だけではなくて、嵐のような悩みや苦しみには、なるべく遭いたくないって思うと思うんですよね。そして自分の周りの人を見わたしてみると、あの台風のような被害に人生で一度も遭遇したことのない方も実際におられますし、あの人はしあわせそうだなぁ、きっと嵐のような悩みとか、苦しみには縁がないんだろうなぁと思える人も、いらっしゃいますよね。苦しい目に遭わない人生もあるんだって思います。

ですから私たちとしては、なるべく嵐にあわない生き方を求め、そしてそれを神さまにお願いして祈る。そういう部分もあると思います。でもここでは、賢い人も、おろかな人も、どちらも嵐にあっているんです。どこに家を建てても、どんな家の建て方をしても、誰もが嵐の中を通されるんだということです。じゃあその、誰もが経験しなければならない嵐って、一体何なんだろう?と思いますよね。24節に「賢い人と比べることができよう」という言葉がありますけれども、実はこれは、未来形の動詞で述べられているんだそうです。つまり将来、そのような賢い人と比べられるときが来るであろう、という意味になるんですね。そしてそれは、今既に味わっているような苦難や試練を指すのではなくて、すべてのものが終わりを迎え、人間のすべてのわざが神さまによってためされる、すなわち「世の終わり」、「終末」(終わりにすえと書きます)の時を指しているんですね。まさに、神さまのさばきの嵐が吹くときがやってくるんだ、ということなのです。

イエスさまがここで言われたのは、その神さまのさばきの嵐に耐えるような家を建てる、そういう人生をつくりあげてゆく、ということだったんですね。前にもお話ししたと思いますが、この山上の説教というのは、イエスさまが示して下さった“生き方”です。私たちが自分の人生を歩むときに、自己流に解釈した、自分に都合のいい生き方を選ぶのではなくて、神さまのお示しになった生き方を選んでいく。たとえそれが、自分にはハードルが高いように思える、人々が選ぼうとしない「狭い門」の生き方であったとしても、その生き方を選んでゆくんですね。

なぜその生き方を選ぶのでしょうか。それはまさに、あの台風よりも激しく私たちを揺さぶる、神さまのさばきということがおとずれるからです。そしてその神さまのさばきは、どんな人にも必ず臨んできます。イエスさまが再びこの地上に来られるとき、私たちは神の国に入れていただけるかどうか、ふるいにかけられます。今回は台風の進路がそれたから大丈夫、というようにして、逃れられるようなことではありません。でも、その神さまのさばきの座に立たされるときに、そこで賢い人と認められて、神の国に入れていただける、そこに至る生き方が、この山上の説教で語られた「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」という生き方なんです。

そういう意味では、この山上の説教に生きるということは、人生最大の嵐をくぐり抜けることができる、大きな希望の道であるといえますね。神さまのさばきという最大の危機でさえも、乗り越えることができるのです。私たちは、イエスさまと共に、イエスさまの語られる御言葉に聞いて生きることが、私たちにとって最大の希望となることを心に留めさせていただいて、歩ませていただきましょう。

 

2. 岩について

次に、「岩について」ということで考えてみたいと思います。ちょっと皆さんお手を拝借したいのですが、まず両手をももの上に乗せて、前後にこすってみて下さい。できますね。じゃあ次にグーにして、太ももをトントンと叩いてみて下さい。簡単ですね。じゃあ今度は、右手はこすって、左手はグーでトントンです。できましたか?じゃあ最後です。今の右手でこすって左手でトントンを、胸のあたりの空中でやってみましょう。難しくないですか?これは豊中の最高齢の片山姉妹が教えて下さったんですけれど、意外と難しいですよね。何でできひんのかなぁと考えてみたんですが、諸説あると思うんですが、私の実感としては、この太ももが土台になっているからできる、ということじゃないかと思うんですね。

私たちが、この山上の説教を聞いて実践してゆくときにも、やっぱり土台が必要です。このイエスさまの示された生き方を、自分の努力で頑張りなさいと言われたとするならば、それはなかなかしんどいことだと思いますし、それではこの生き方を全うすることができません。というのは、私たちは、正に自分自身が砂のようなものだからです。確かに一時は、自分で自信を持って、それこそ岩のような強固な意志でひとつひとつの事に取り組んでいくことができると思います。でもそれで最後までいけるかというと、そうじゃないですね。むしろすぐにつまずいたり失敗したりしますから、自分自身はとうてい岩にはなりません。ここで言われているところの「岩」とは、いったい何を指しているのでしょうか。何を土台にしていったらいいのでしょうか。

まずひとつは、イエスさまが山上の説教を語られているときに、何度も何度もくり返してこられた表現があるんですね。それは、「天の父」ということです。イエスさまは、神さまというお方を、父だと紹介されました。しかも、「あなたがたの天の父」「あなたがたの父なる神」と言われているんですね。イエスさまは神さまのひとり子ですから、神さまのことを父と呼んでよいことはわかります。そこには父と子という、麗しい愛の関係があります。神さまはイエスさまを、絶大な愛をもって愛しておられます。でもその神さまの愛を一身に受けておられるイエスさまが、私たちひとりひとりでさえも、神さまに「子」として愛されているんだ。あなたも絶大な愛をもって愛されているんだ、と教えて下さいました。

私たちがこの山上の説教の生き方に生きようと思えるのは、この神さまの絶大な愛があるからですね。すぐにつまずく自分です。イエスさまの求めに応えきれない自分です。いや、時には応えようとさえ思わなくなる自分です…。でもそんな私たちのことを、神さまはひとり子イエスさまを送って下さるほどに、愛して下さっている。その愛は決して変わることがありません。まさに岩ですね。私たちが人生を賭けておすがりすることのできる岩、人生を賭けて頼りにして、決して間違いのない岩、土台、それが神さまの愛なのです。

もうひとつは、このメッセージを語られたイエスさまご自身こそが、私たちの岩なんだということです。27節と28節を見ると、このイエスさまの山上の説教を聞いた、人々の反応が書かれています。人々は驚いたんですけれども、それは、イエスさまが「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように」教えられたからですね。「律法学者たちのようにではなく」というところには、若干マタイの皮肉を感じさせられる気もしますが、イエスさまは「権威ある者」としてお語りになっているんです。権威ある者とはどのような者でしょうか。王さまや政治家、大企業のトップ、そういった人を思い起こすかもしれません。確かにそういう人の権威もあります。でも例えば政治家でしたら、何かあったときには「秘書がしたことです」とだんまりを決め込む。あるいは大企業の会長は、権威の裏で不正を犯して私腹を肥やしていたりする。そんな権威は大したことがないと思います。

もしイエスさまが、「この生き方だ、お前が頑張れよ。私は知らんぞ」とか、「この生き方でいったら神さまのさばきも大丈夫!しらんけど…」などと言われたら、そこには何の権威もありませんよね。

本当に権威のある言葉は、私はその事のためにいのちをかける!という、“思い”と“生き方”のある言葉です。イエスさまはこの山上の説教の生き方を語られるときに、ご自身をかけて語っておられるんですね。ある先生はイエスさまが「この言葉の完成のために、自分の全生涯をたたき込んでおられる」と表現されていました。確かに神さまは絶大な愛を持って愛して下さっています。でもその神さまと共に歩む事のできない、罪人の私たちの姿がある。その私たちが、罪のゆるしをいただき、神さまの絶大な愛を受けて歩む事ができるために、イエスさまは自らあの十字架にかかって、その罪の罰を受けて下さった。そのイエスさまの十字架の生涯こそが、私たちの“岩”となるのです。

私たちは、日々の歩みにおいても様々な嵐にあいます。でも、それらに勝る、絶対に避けることのできない嵐にさらされる時が来る。でもその嵐さえもくぐり抜けることのできる、“岩”を土台とできることを覚えたいと思うんです。神さまの愛と、イエスさまの十字架の生涯が、この山上の説教に生きる生き方を支えて下さると信じ、今日もここから遣わされてまいりましょう。