2019年7月21日のメッセージ

「マタイによる福音書第7章7節~12節」

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

 

「求めよ!」

 

マタイによる福音書の、イエスさまが語られた山上の説教から学んでいますが、今日の箇所というのは、とても有名な箇所ですね。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」。これはクリスチャンでない方でも耳なじみのある言葉かもしれません。でもあらためて考えてみますと、「とにかく何でも求めたらええねん、求めたら神さま与えてくれんねん」という風にとらえるなら、それは自分の欲望を叶えてもらえるための、いわゆる御利益宗教になってしまいます。本当にそれでよいのでしょうか。また、もしそれぞれが逆のことを求めたらどうなるんでしょう。例えば今大相撲の名古屋場所ですけれども、土曜日の時点では白鳳関と鶴竜関が1敗で並んでいます。白鳳関ファンのクリスチャンが「白鳳が優勝しますように!」と求め、かたや鶴竜関ファンのクリスチャンが「鶴竜が優勝しますように!」と求めたら、どちらかの願いは聞かれないことになります。何をしょうもないことを…と思われるかもしれませんが、あらためて、この7節の御言葉の意味を味わってみましょう。

 

1. 良いものを下さる父

はじめに、「良いものを下さる父」ということで味わいたいと思います。この御言葉を考える時に、私たちはつい、この7節の言葉だけを切り取って考えてしまいます。しかしこれは最初に申し上げましたように、イエスさまの語られた山上の説教の一部ですから、イエスさまはこれまで話されてきたその流れの中で、この事を語っておられるんですね。

これまでのところをふり返りますと、5章の「心の貧しい人たちは、さいわいである」というところから語られてきましたけれども、これらは実に具体的で、実際の私たちの生き方が問われてきました。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」、祈る時は、自分の部屋に入って戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。「天に、宝をたくわえなさい」、「何を食べようか、何を飲もうか」と、「明日のことを思いわずらうな」。また、「人をさばくな」。これは前回学んだところです。

でも、実際にそのイエスさまの示される生き方に生きていこうとする時には、やはり難しさを覚えるのではないでしょうか。ある本で紹介されていたんですが、『婦人之友』という雑誌の創刊者であり、自由学園の創立者である、羽仁もと子さんという方が書いた文章の中に、このようなものがあるそうです。人生を生きていくのに、二つの動力が働いている。ひとつは、「やってみよう」という力である、よし、やってみようと自分で自分を励ます力です。もうひとつは、「やったってどうせだめさ」と、やろうとする心を抑える力である。このふたつの力が人生においていつも働いており、そのため我々は苦労する。どうもこの「どうせだめさ」と思う気持ちの方が、人間の自然のことと思い込んでいないだろうか。先生はそのように問うておられるというのです。

確かに私たちは、イエスさまがここまで語られてきた生き方、それが具体的であればあるほどに、「やってみよう!」という気持ちよりも、「どうせ無理やって…」という気持ちの方が強いのではないでしょうか。これはあくまでクリスチャンとしての理想の生き方であって、それを目指せばいい、くらいにしといてもらわないとしんどいなぁ。そんな風に考えてしまうような気もするんです。しかしイエスさまは、実はもう山上の説教の結論に入ってきているんですが、その結論の部分において、これらの生き方に生きることができるように、「求めよ」「探せ」「門をたたけ」と言っているんです。これは三つとも、求め続けよ、探し続けよ、たたき続けよ、と訳すことのできる言葉です。どうせ無理だとあきらめるんじゃない、求め続けよと言われている。

なぜなら、そうやって求める者は「与えられる」からですね。イエスさまは、求め続ける者は、手にすることができるだろう、とは言われませんでした。「与えられる」と、受け身の形で言われたんですね。これはつまり、与えてくれる相手がいる、ということです。その相手とは、11節にありますように、「天にいますあなたがたの父」、すなわち神さまですね。9~11節のところで、たとえ悪い人でも、自分の子供が求めたら良い贈り物をするんだから、なおさら、あなたの父である神さまは、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか、とあります。これは反語表現ですから、必ず与えて下さるということですね。

しかもそれは、「良いもの」です。この「良いもの」というのは、面白いことに、複数形で書かれているそうなんです。私たちが神さまに求める時は、普通はその自分の求めがそのまま叶えられることを「良いもの」と思っています。それ一択です。でも、私たちのその求めに対しては、良いものとして与えられる選択肢はいっぱいあるんです。でもその中から、今の私たちに一番必要なものを、神さまが与えてくれる。この、何をもって良いものとするかは、私たち人間はいつも正しく判断できるとは限りません。9節からの親子のたとえで言うなら、自分は良いものと思っても、相手にとっては石や蛇であるかもしれません。でも神さまは決してそうではありません。自分の判断での「良いもの」ではなく、神さまの「良いもの」とする判断に委ねていく。この神さまへの信頼こそが、イエスさまの示される生き方に生きられる秘訣なのではないだろうかと、思わされています。

 

2. 自分がして欲しいことをする

次に12節の、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」というところから考えてみたいと思います。この御言葉は、しばしば「黄金律」と呼ばれている御言葉なんですが、人間が生きていく上で、黄金のように大切であり、しかも、まずこれを心がけていれば大丈夫、と言える教訓がこれだということですね。なるほど、そのような面もあると思います。

でも実際、この御言葉を実践してみようと思ったら、それはやっぱり難しいことですよね。、自分がして欲しいと思うことを、人にもその通りにしなさい。具体的に考えてみると、はたして自分が願っていることを人もして欲しいと思うだろうか。むしろ、自分の考えを押しつけることになってしまって、かえって迷惑になってしまうんじゃないだろうか。いろいろ考えてしまいます。

で、これと同じような逆の表現もありますよね。自分がされて嫌なことは、人にもしなさんな。これも大切なことですよね。イエスさまが言われたことと、結局は同じことを言っているようにも聞こえます。しかし、実は大きな違いがあります。それは、されて嫌なことは人にもするなというのは、とても消極的なんです。下手すると、しない=関わらないとなって、なるべく人と関わらない方向に進んでいってしまいます。でもイエスさまはそうは言われなかったんですね。自分がして欲しいことを、人にも「する」。ここでイエスさまが示しておられる生き方は、実はとても前向きな、積極的な生き方なんです。

じゃあそもそも、「人々からして欲しいと望むこと」とは一体何なのでしょうか。イエスさまはこれを語る時に、「だから」と言っておられますから、この言葉の、これまでイエスさまが語られた文脈から考える必要があります。イエスさまは、神さまの前に生きる生き方を示してこられました。でも私たちの内には、それができる力がない。「やってもどうせダメだ」。そう思わされることは、自分にとって嫌なことですよね。空しさを覚えたり、時には悲しみに打ちひしがれたるするようなこともあるでしょう。その悲しみの中におかれている時に、自分がしてほしかったことは何か?それを考えてみてごらん、ということなんです。やっぱりそういう時にこそ、慰めの言葉が必要です。慰めを求め、力を求めて、神さまに祈ったんじゃないか。神さまに求めたんじゃないか。その時どうだった?ちゃんと与えられただろう。その与えられたものは「良いもの」だっただろう。あなたはあの悲しみを知っている。そして、その悲しみの求めに良いものを与えて下さる神さまを知っている。そういう者として、あなたの隣り人に寄り添ってゆきなさい。そういうイエスさまのお勧めなんです。

そういう意味では、この黄金律は、自分と人という人間同士の関係だけでは成り立ちません。ただの人生訓じゃないんですね。自分の悲しみに対して、神さまが良いものを与えて下さったという経験が必要です。そして、その神さまが相手に良いものを与えて下さるという確信、信仰が必要なんです。神さまを知っているクリスチャンだからこそ、選ぶことのできる積極的な生き方であることを、心に留めさせていただきたいと思うんですね。

最近、自分が一番求めたことって何だろうとふり返った時に思い起こしたのは、やはり父のことでしたね。キャンプ場の作業中に転落して、思った以上の深刻な脳の損傷で緊急開頭手術。しかしすでに体を維持できないほどに機能が低下しており、手術にからだが絶えられないということで、何もできずに戻ってきたんですね。皆さんにも連絡をし、お祈りをお願いしていましたが、実はその時点でもう絶望的な状況だったんです。そんなところに、次々に皆さんからのメールで「祈っています」「祈っています」という言葉が届いたんです。私は「祈ろう!」と思いました。「お父さん帰ってきて!神さま、まだ連れて行かないで下さい」。神さまの奇跡に、一発逆転、賭けるような思いで、本気で、必死に祈りました。求めたんです。

その求めはかないませんでした。でも、あの時本気で祈り求めたからこそ、これも神さまの御心だと、父の死をちゃんと受けいれることができました。早いもので、あれからもう一年がたちましたけれども、あの時の祈り求めがあるからこそ、今も落ち着いた生活ができているんだと思うんです。

祈っています。自分にとってはかけて欲しい言葉でも、本当に今その人がかけて欲しい言葉かどうか、迷うと思います。でもそれでもその言葉を贈って下さった方。いや、だからこそ贈らなかった方。その思い。全部ひっくるめて、私にとっては「良いもの」となりました。私たちはこの神さまの良いもので、前を向いて、今日もここから歩ませていただきたいと思います。