2019年5月16日のメッセージ

マタイによる福音書第6章25節~34節

6:25

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

6:26

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

6:27

あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。

6:28

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

6:29

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

6:30

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

6:31

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

6:32

これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。

6:33

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

6:34

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

 

「思いわずらいからの解放」

 

マタイによる福音書の6章の後半の部分というのは、私たちの具体的な経済生活の面を取り上げているところです。前の19~24節では、「宝」や「富」という表現がされていますが、経済の問題、いわゆるお金の問題について取り上げました。そして、今回の25節以降は、衣食のことについて述べられています。しかも、この事については、イエス様は25節で、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。」と言われています。

そうは言っても、自分の命のこと、自分のからだのこと、着る物や食べる物のことで、ついつい思いわずらってしまうのが私たちの正直なところです。私たちはこのイエス様のお言葉をどのように受けとめたら良いのでしょうか。いつものように、2つのことで考えてみましょう。

 

1. はるかにすぐれた者

まず26節にあります、「はるかにすぐれた者」という表現を中心にして考えてみたいと思います。そもそも、「思いわずらう」とはどういうことでしょうか。別の翻訳では「心配する」となっていますが、心配するってそんなに悪いことなのでしょうか。我が家では、私より家内の方が心配性だと思います。家内は先のことをよく考えるものですから、「あれしといた方がいいと思う?」「これは、こうしといたほうがいいんじゃない?」とよく言います。34節に「明日のことを思いわずらうな」とありますが、まさに明日の心配をするわけです。でもそれによって余計なリスクを回避できることもありますから、心配できるということも、ひとつの才能、賜物だと思います。

確かにこの「思いわずらう」と訳されている「メリムナオー」という言葉は、第一コリント12章25節では、「それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである」と、「いたわり合う」と訳されていますので、相手を心配していたわる、またそのために具体的に行動するということです。そういう意味では、むしろメリムナオーが勧められています。実は、問題は動機なのです。よくよく考えてみると、私たちは心配する時、あるいは思いわずらう時に、その問題と自分自身だけを見ているのではないでしょうか。何か解決しなければならない問題が起こってきた時、私たちはその問題ばかりを見ている。そして、その問題は自分が何とかしなくちゃいけないんじゃないかと考える。意識してか無意識かわかりませんが、そう思っているような気がするんです。

だから、その問題に対して自分の頭の中の引き出しをありったけ開けて、「こうしたらいいんじゃないか」、「ああしたらいいんじゃないか」と一生懸命考えます。でも、そこで気付くことがあります。その目の前の問題に対して、自分の引き出しの中身があまりにもなさ過ぎる。対応できる知恵が乏しすぎる。そうなると私たちは、まさに思いわずらい、心配に飲み込まれていってしまうのではないでしょうか。これは、心配性な人は気をつけなさいということではなくって、誰しもそうなのではないかと思います。

しかし、イエス様は言われます。26節、「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない」。そうやって問題と自分しか見ていない私たちの目線を、イエス様は別の物に向けさせました。「空の鳥」を見よ。彼らは蒔くことも刈ることも、貯えることもしないじゃないか。それでもちゃんと生かされている。実はこれは、鳥に目を向けさせたわけではありません。その後、「それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」と、目を神様に向けさせたんです。私たちが本当に思いわずらいから解放されて歩みたいならば、この神様が必要なのです。たとえ、どんなに私たちを思いわずらわせるようなことがあったとしても、でも私は大丈夫だ。心からそう言える。その根拠になって下さるのが、聖書の語る神様なのですね。

そして、さらに言われました。26節の最後のところですが、「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」。イエス様は空の鳥に目を向けさせましたけれども、鳥と私たちには共通点があります。それは、どちらも神様に造られた者、被造物だということです。旧約聖書の創世記を見てみますと、その事が描かれていますね。しかし鳥と人が決定的に違うのは、人は「神のかたちにかたどって造られた」ということです。そういう意味でイエス様は、人は、そして私という存在は、神様によって特別に造られた、「はるかにすぐれた者」であることを思い出させて下さいます。

問題を見て、自分を見ているだけでは、問題の方がこんなに大きくて、自分は本当に小さく思っていたかもしれません。でも、神様というお方を信じる時に、自分はそんなに小さな者ではないのだと、神様を信じる信仰によって、本来の自分の大きさを取り戻せる。そうやって私たちは、思いわずらいから解放されていくことができるのです。

 

2. 一日の苦労はその日一日だけで充分

次に、34節のお言葉に注目しながら、「一日の苦労はその日一日だけで充分」ということで考えてみたいと思います。イエス様は、「空の鳥を見なさい」と語られた後に、「野の花」を見るようにとうながされています。イエス様はかなり丁寧に、「思いわずらい」ということについて語っておられます。具体的な課題として、食べ物、着る物のことを挙げていますし、鳥から始まって、寿命のことに触れ、野の花のたとえを用いて語られる。そして、何度も何度も思いわずらうなと言っておられる。でももしイエス様ご自身が、人々の生活から離れた仙人のような生活をしておられて、それこそ理想を押しつけるようにしてこの事を語られていたとするならば、「あなたも働いてみなさい、生きるということがどんなに大変か、あんたは苦労していないからそんなことが言えるんだ!」と、人々の批判されていたことでしょう。

しかし、イエス様は、世間知らずだったのではありません。30歳で公生涯を始めるまでは、ナザレという田舎町の大工の息子として育ちました。父ヨセフは、幼少期のエピソードでしか出てきませんので、早くに亡くなったのではないかと言われています。そうであるとするならば、お母さんや弟、妹たちを支えるために、苦労して働かれたことは容易に想像できます。金持ちとは言えない、むしろ貧しい中で、今日何を食べようか、着る物は何があるだろうかと、実際にお感じになったこともあるのではないでしょうか。

それでも、人々が感じる、そういった生活の中での、あらゆる心配事を経験しておられても、なお、イエス様は「思いわずらうな」と、繰り返し繰り返し言われます。31節でも「思いわずらうな」と言われた後、32節では、「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。」とありますが、異邦人とは、神様を知らない、信じない人のことを指します。あなたがたには神様がいるでしょう。だから心配しないでいいのだと、イエス様は言われています。

そして、最後の34節でも、念押しするように「思いわずらうな」と語られます。その最後のところに、「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」とあります。このことについて、ある本でこのように書かれていました。私たちが心配し思いわずらうのは、実際に今日の苦労があるからですよね。この今日の苦労を生きる時、なかなかその苦労を素直に受けいれることができない時があります。なんで私一人がこんなに苦労しなきゃいけないんだと思ったり、逆に、今日一日のつらさだったら、今は適当にごまかせば何とかなるだろうと、その労苦を受けいれることができないこともあります。そして、思いは明日に向かい、明日はもっとマシなことがあるだろうか。同じ労苦が続くのだろうか。そうやって今を、こんなハズはなかったと嘆き続けるようなことが、もしかしたらあるのではないか。実は私たち日々つらいのは、今日の労苦を受けいれられないところから来るのだと思われる、と言うのです。

確かにそうかもしれませんね。今日の苦労をちゃんと受けとめられていない自分がいる。そういう私たちに対して、イエス様は、今日の労苦を受けいれたらいいと、言っておられるのです。しかしそれは、受けいれなきゃダメだという上からの物言いではありません。イザヤ書において、救い主であるイエス様をあらわす言葉に、「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」とあります。思いわずらいも、やはりわずらいです。わずらいは漢字で、患者の「患」とも書きます。でもその私たちの思いわずらいも、全部イエス様が負って下さる。私たちは今日の労苦の持っていきどころを、イエス様に持つことができる。そうやって、神様にあって「今日一日もこれで良し」と言える。神様を知っている者は、そうすることができます。だから、まず神の国と神の義を求めるのです。神第一なのです。

 

私たちは知らず知らずのうちに小さくなっている自分をもう一度大きくさせていただき、また、私たちの思いわずらいを負って下さるイエス様によって、今日の苦労を受けいれながら、歩ませていただきましょう。そこに、思いわずらいから解放されて歩む事のできる人生があるのです。共に主の前に祈りましょう。