2019年5月26日のメッセージ

マタイによる福音書第6章14節~18節

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。

もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

 

「天の父の前に」

 

先週は西日本女性大会が行われ、私は教会のご婦人方を車でお送りしました。会場が箕谷でしたので、豊中からですと、中国自動車道から阪神高速北神戸線を通って行ったんですね。行きは、中国自動車道から乗り継ぐ時に2,040円を支払ったのですが、その時に中国自動車道と北神戸線がそれぞれいくらか明細が書いてありました。ですので、帰りはまず北神戸線で700いくら払うんだ、と思っていました。ところが、北神戸線の入り口で、1,300円も支払ったんですね。「あれ?こんな払わなあかんの?」「何か間違えたんちゃうか?」と思ったら、めちゃめちゃ不安になってきたんです。でも、そうはいってもどうにもできませんから、ドキドキしながら中国道の料金所で乗車券を渡したら、ちゃんと中国道の金額が少なくなっていて、合計は行きと同じ金額でした。安心しました♪詳しくはよくわからないんですけれども、そういうシステムだったんですね。

知らない、ということは私たちを不安な思いにさせます。私たちが日々生きる中で、いろいろな、知らない、わからないがあり、それらについて考えると不安になることがあります。けれども、聖書の言葉は、そんな私たちの「知らない」に応えてくれる神様の言葉です。今日もその神様の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 

さて、今回の聖書の箇所は、ここを一括りにすることは、いささか強引かもしれないなぁと思います。というのも、14~15節は主の祈りの中の12節にあります、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように…」というところと合わせて学ぶことが多いようですし、16~17節のところは、主の祈りの前のところで「施し」「祈り」「断食」の三点セットで、神様への善行ということでまとめて取り上げられることが多いんです。しかしよく見てみますと、どちらのことも天の父、父なる神様という角度から見ることができると思いますので、今日は14~18節という区切りで、「天の父の前で」と題してお話しさせていただきたいと思います。

 

1. ゆるしについて

まず、14~15節のところから、「ゆるし」ということについて考えたいと思います。ゆるしということが取り上げられると、ちょっと心がチクッとする、という方もおられるのではないでしょうか。というのも、私たちは、意外といろいろな事の中でゆるせない思いを抱いていることがあるからです。まさにイエス様は、私たちの具体的なところに触れてこられる、痛いところを突いてこられているわけです。

そして14節を見ますと、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」とあります。ですから読んだ第一印象としては、自分が人をゆるせば、神様は私たちをゆるして下さる、つまり、自分がゆるせるかどうかが、自分もゆるしてもらえる条件のように聞こえてしまいますよね。でも実はそうではないんです。色々な本の中で同じように言われていることは、これは、自分が人をゆるすことと、神様にゆるしていただくこととは、決して別のことではなくて、密接に繋がっているということなのです。

そもそも私たちが「ゆるせない!」と思うのはどのような時でしょうか。例えばテレビを見ていて、悪質な犯罪や、政治家の不正などを見てゆるせない思いになることもあるでしょうけれども、多くの場合、人の言葉によって、あるいは行動によって自分が傷つけられた時に、心に残るほどのゆるせない思いになると思うんです。それは言い換えるならば、その相手の罪によって自分が傷つけられたということです。14節でイエス様は、「人々のあやまちをゆるすならば」と言われましたが、この「あやまち」とは、罪をあらわす言葉の一つです。また12節で、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」とありますが、この「負債」とは、別の訳では「負い目」とも訳しますし、私たちが礼拝で祈っています主の祈りでは、「われらに罪を犯す者を」と祈りますね。「罪」、なんです。

私たちは、相手が自分に対し罪を犯した場合、「あの人は私を傷つけたじゃないか!」とそれで自分が傷ついたことを理由にして、どこまでも相手を責めてよいような気になると思うんです。でもイエス様は、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう」と、相手が自分に対して犯した罪と、自分が神様に対して犯した罪とを、セットにして考えることを問いかけておられるのです。

これは、ゆるせないということは罪ということから来るのだから、そもそも「罪」ってどういうことなのかを、自分自身のこととしてよく考えてみなさい、という問いかけなのではないでしょうか。私たちがゆるしに生きようとするならば、まず罪とはどういうことなのかよく考えることが必要なんですね。そして、罪とは何かということを考えれば考えるほどに、人のことを罪人呼ばわりできない自分の姿を発見させられるのです。でも天の父は、そうやって自分の罪と向き合う者を、ゆるして下さると、イエス様は言っておられるんですね。ここで言われていることは、神様にゆるしてもらえる者とそうでない者がふるいにかけられるんじゃなくって、罪ということがわかれば、自分の罪のゆるしがわかり、その天の父である神様のゆるしの大きさによって、私たちもまたゆるしに生きることができる。そう言っているということなんです。

ですからそのためには、私たちは罪とは何かということをよく考える必要があります。面白いことに、新約聖書が書かれたもとのギリシャ語においては、罪をあらわす言葉が5つもあるんだそうです。最も一般的に使われているのは“ハマルティア”という言葉なんですが、これはもともと射撃に使われた言葉で、「的を外す」という意味でした。神様に造られた者が、神様を忘れ、的外れな生き方をしているということです。また“パラバシス”という言葉があるんですが、これは「踏みこえる」という意味ですね。正しさの境界線を踏み越えてしまうということ。自分はいつも境界線の正しい側にいたと断言できるかどうか、ということです。そして14節の「あやまち」は、“パラプトーマ”という言葉で、「滑って踏みはずす」というという意味です。意図的ではないけれども、衝動的に、感情的に自制心を失って罪を犯してしまう。また4つ目は、“アノミア”という言葉で、「不法」という意味だそうです。これは間違っていると知りながら、自分の思うようにしたいという気持ちが勝ってしまうということです。そして最後は、“オファイレーマ”という言葉で、12節の主の祈りのところで使われている、「負債」「負い目」ということです。当然払うべき者を払わなかった、果たすべき当然のつとめを果たさなかったという罪。

こうやっていくと、自分にも罪があるなぁと思わされるかもしれません。でもそうやって自分の罪の深さ、大きさが本当にわかった者こそが、そんな自分を神様がゆるして下さることの素晴らしさがわかる。そして、父なる神様にゆるされた者こそが、今度は人をゆるすことができるようになります。父なる神様の前にあってこそ、ゆるしに生きることができるのです。

 

2. 断食について

次に16~18節のところから、「断食」ということについて考えたいと思います。皆さんは断食されますか?最近では断食道場なるものもあるようですけれども、これは健康のためにする断食ですね。「断食してますよ!夕食食べたあと、次の日の昼ご飯まで断食しています!」それは朝寝坊して、ただ単に朝ご飯を食べそびれただけ…だと思いますが(笑)。

この断食は、主の祈りの前に書かれている、二つの善い行いの続きとされています。1つ目は「施し」をすること、2つ目は「祈る」ことでした。3つ目におかれているのが、この「断食」です。現在、教会としてこの断食を定期的に行うということはないと思います。父は時々1週間の断食をしましたけれども、それは緊急の祈祷課題があって、そのために集中して祈る、ここぞという時に断食をしていました。皆さんも断食というと、そのイメージかもしれませんね。

イエス様がおられた時代、ユダヤ教では、公の断食日にする断食や、誰かが亡くなって喪中の間にする断食などは、複数人や共同体で公に行っていました。しかしそのような公の断食だけでなく、個人的な断食ということをしていました。今日の16節以下で取り上げられている断食は、この個人的な断食について言われているんですね。これは当時、相当な人気があったそうです。個人的な断食をとても極端な仕方で行うことによって、聖人の評判を獲得することができたとも言われていました。敬虔な行いに対して熱心であるとされていたパリサイ派の人々の中で、人の多い市場の立つ日に、わざわざ街角に立ち、自分が断食しているということを見逃さないようにさせるために、断食の時のルールである体を洗わないということだけでなく、あえて髪をみだし、あえて汚れている粗末な服を着て、不健康そうに見えるように顔を白く塗って顔が青白く見えるようにしていたそうです。結局そういう断食は、自分のための断食なんですね。自分が評価されたい、自分が褒められたい。そのための断食でした。だからイエス様に批判されたんですね。

でも本来の断食の意味は、「嘆き」を表すということです。自分が如何に悲しいか、その最大の表現方法だったんですね。では何が悲しいかということです。これがまさに、「罪」に対する悲しみだったんですね。自分はなんと罪深い者だろうか。その悲しみと、悔い改めの思いを表す「嘆き」の表現、それがこの断食でした。先ほどは自分の罪についてよく考えることをお話ししましたが、自分の罪がリアルにわかったらどうでしょうか。当然悲しくなるのです。自分は何て醜い者なんだろう、なんとひどい過ちを犯してしまったんだろうと、いても立ってもいられない悲しみを覚えてます。でもその悲しみは、人には言えないのです。こんな醜く汚れた罪があるなんて、人には言えない。これがばれたら、私は来週から教会に来られなくなる。みんなに幻滅される。そう思ったら、その悲しみはどこにもやり場がありません。

でもイエス様は言われました。18節。「それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである」。その悲しみを、ちゃんと聞いて受けとめて下さる、それが聖書の語る神様です。そして続きには、「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」とありますね。ただ聞くだけじゃなくって、報いて下さる。すなわち、この父である神様の前でこそ、罪が解決し、悲しみが喜びに変えられるんですね。私たちがその悲しみを断食して表現したり、祈ったりする前から、その罪の問題を解決してくださいました。2千年前、イエス様は十字架にかかってくださいましたけれども、それはまさに、私の罪の身代わりとして、皆さんお一人一人の罪の罰を、あの十字架の上で受けて下さいました。その十字架を私のためと信じる時、この悲しみ、嘆き以外の何ものでもない罪がゆるされるのです。

聖書は私たちの罪を示す書物です。でもそれは、私たちを罪の嘆きに閉じ込める為に示すのではありません。その悲しみを父なる神様の前に持ってくる時に、そこに救いがある。ゆるしがある。そのことを体験する時に、私たちもまた、ゆるしに生きることができるのです。