2019年5月12日のメッセージ

マタイによる福音書第6章9節~13節

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、

 

天にいますわれらの父よ、

御名があがめられますように。

 

御国がきますように。

みこころが天に行われるとおり、

地にも行われますように。

 

わたしたちの日ごとの食物を、

きょうもお与えください。

 

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、

わたしたちの負債をもおゆるしください。

 

わたしたちを試みに会わせないで、

悪しき者からお救いください。」

 

 

「主の祈りに生きる」 

 

今回もこうして、御言葉を分かち合うことができますことを、心から感謝しています。

先日、いつものように机に向かって仕事をしていた時のことです。机の左側に、毎月教会で出している聖務表を貼ってあるのですが、何の気なしにそれを眺めていて気付きました。何かといいますと、5月が30日までしかないんです。31日が抜けてしまっていたのです。日付は毎月、表に書き入れているのですが、うっかり書き忘れてしまったようなのです。そんなことさえも忘れてしまう自分が、ちょっと情けなくなってしまいました。

その程度のことならまだいいかもしれませんが、私たちは時に、大事なことをうっかり忘れてしまうことがあります。しかし神様は、決して私たちのことをうっかり忘れてしまうことはありません。イザヤ書44章21節に、「あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。」というお言葉がありますが、わたしはあなたを忘れないと語って下さる神様が、今日も私たち一人ひとりを招いて下さっていることを感謝し、神様の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。

 

今回、取り上げますのは「主の祈り」です。礼拝時にはみんなで一緒にこの主の祈りを祈ります。毎週欠かさず、礼拝において祈っています。

旧約聖書の律法に生きるユダヤ人たちは、具体的に神様への信仰を表す行為として、施しと祈り、そして断食の3つを行ってきました。その一つである祈りについてイエス様がお話になる中で、私たちの祈りのお手本として、具体的にこう祈りなさいということを教えて下さいました。それが主の祈りというものです。

この主の祈りについては、もちろん色々な本で取り上げられていますし、様々な角度から見ることができます。また、それぞれを詳しく見てゆくこともできますが、そのような学び方はまたの機会にして、今回はこの箇所から、祈りの大切なポイントについて、二つのことにしぼって考えてみたいと思います。

 

1. 父への祈り

まず、「父への祈り」ということについて考えてみたいと思います。お祈りの要素として、最初に神様に向かって呼びかけております。皆さんは、どのような言葉で祈り始めますか。時々、そこに個性が表れている方もいらっしゃいます。「全知全能の神様」とか、「愛なるイエス様」というのも聞いたことがありますが、多くの場合、「天の父なる神様」とか、「愛する天のお父様」という言い方ではないかと思います。私たちは神様を「父」と呼んで祈るわけです。

実はこの山上の説教において、イエス様は神様のことを表現するのに、「神」という言葉と共に「父」という言葉で表現しています。特に6章のこの箇所では、6節でも「隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」と言われ、また8節でも「あなたがたの父なる神は」と言っておられますので、神様というお方を父と呼ぶことが、とても自然なことのように思わされます。

確かに、旧約聖書の中にも、神様とイスラエルの関係を父と子で表現する箇所がありますので、当時のユダヤ人たちにもそのような理解はあったことでしょう。しかし、実際に祈る時には、例えば、「主よ、あなたはほめたたえるべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神…」というような呼びかけから始まったといいます。実際の祈りにおいて、神様を父と呼ぶなんて、それは神様を冒涜しているような、そんな印象だったと思います。しかし、イエス様は、神様を父と呼ぶ。しかも、マルコ14章を見ると、イエス様は「アバ、父よ」と呼ぶのです。これは幼子が父親を呼ぶ言葉、「おとうちゃん」ということです。神様をお父ちゃんと呼べる、その関係性に立つことが大事なのです。

お父ちゃんと言えば思い出す事があります。聖書学院で学んでいたある日、授業が終わって正面玄関から出てきた時に、同期の先生が一緒にいたのですが、ちょうどその時にその先生の長女の方が、保育園か幼稚園から帰ってきました。そして、遠くからお父さんを見つけたのです。すると、多分30mくらいあったと思うのですが、そこからお父さんめがけて全力疾走、しかも、「おとうちゃん!おとうちゃん!」と、学院の庭中に響き渡る声で、ずっと叫びながら走ってきて、その先生の足にぶつかるようにして抱きついたのです。その「お父ちゃん!」がおかしくて仕方がなかったのですが、それを見ているその先生がまた嬉しそうなこと。そして、飛び込んでくる我が子をちゃんと受けとめる。娘も受けとめてくれると当然のように信じている。神様をお父ちゃんと呼べることは、そのような素晴らしい関係に入れていただいているということだと思うのです。

でも、ここで忘れてはならないことがあります。イエス様が神様を「父」と呼んでいいのはわかる。イエス様は神の子ですから。しかし、私たちも同じように親しく父と呼んでよいのかといったとき、本来はNOなのです。私たちは罪人であり、罪によって神様との関係において深い溝、大きな断絶がある者です。しかし、イエス様はご自身が十字架にかかって、その罪の罰を受けることによって私たちが罪ゆるされ、神様との関係が回復する道を開いて下さいました。イエス様の十字架を私のためと信じる時に、私たちは神様を、父と、お父ちゃんと呼ぶことのできる、イエス様と同じ関係に入れていただくことができるのです。ですから、ここでイエス様が教えて下さった主の祈りには、もうすでにイエス様の十字架がおり込み済みなのです。

イエス様が十字架で命をかけて下さったからこそ、私たちは神様と「父」と呼べる。「おとうちゃん」という、親密な関係のある、絶大な信頼を寄せる方として呼ぶことができる。こんな感謝なことはありません。その感謝と喜びのゆえに、私たちは「御名があがめられますように」と祈ることができる。これは、聖書から外れた、勝手に作りあげたイメージで神様を見ることがありませんように、という意味だそうです。そして、「御国が来ますように」「みこころが行われますように」と祈れる。これは、そのお父ちゃんの思いが私の実生活に及ぶことができるように、そう祈れる者になるということです。私たちはそのような意味で、主の祈りに生きる者でありたいと思うのです。

 

2. われらの祈り

二番目に、「われらの祈り」ということで考えてみたいと思います。主の祈りは大きく分けますと、二つの部分に分けることができます。ひとつは9節と10節で、ここは神様についての祈りですね。そして11節以降は、自分についての祈りです。その意味では、私たちは自分の祈りがこの2つにおいてバランスが取れているかどうかを、いつも確認するとよいのではないかと思います。とは言っても、大体は後者がとてつもなく大きくなっていることの方が多いのが、私たちの実際のところです。

それでも、少なくともイエス様は自分の祈りを祈ってよいとして下さっているのですから、そこは安心して祈りたいと思うのです。そうは言っても、何でもかんでも自分の欲望のままに祈っていいわけではないなあとも思います。私たちは、自分についての祈りをささげる時に、どんなことを心がけて祈ったらよいのでしょうか。

いろいろ言うことができると思うのですが、今日心に留めたいことは、この主の祈りが「われら」、「わたしたち」の祈りであるということです。6節のところを見ますと、イエス様は「祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」と言われました。ですからこの祈りは、神様と自分の一対一の祈りを指しているわけです。例えば、礼拝において、会衆の代表として祈るのであれば、「われら」の祈りというのはわかると思います。しかし、そうではない時でも、われらの祈りとして祈るとはどういうことなのでしょうか。

三浦綾子さんが『新約聖書入門』という本の中で書かれていたのですが、「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」という祈りだけは、余計なものだと思ったそうです。毎日の食物ぐらい、いちいち神様に祈らなくても得られると、傲慢にも思っていたとおっしゃるのですね。確かに私たちも、そこまで切実に「今日のご飯が与えられますように」と祈ることはないでしょう。でも、三浦綾子さんは述べられます。これは「われら」の祈りだと。当時の時代、施しが善行とされていたということは、それだけ飢えて貧しい者が町に溢れていた。にもかかわらず、自分だけ腹を満たせばそれでいいという祈りをささげるのではなく、「われら」として祈る。その大切さ。

けれども、さらに三浦綾子さんが気付かされたこととして書かれていたのは、人間の食物で何一つ神様から与えられなかったものはないということです。神様はすべてのものを創造されました。人間が何かをつくり出してきたかのように思っても、人間の創造したものは何一つありません。その神様のものを、「われらに、われらのものとして与えたまえ」と祈ることが、ここで求められていることなのだと思うのです。

そしてさらに、この「日ごとの食物」とは、体の糧と同時に心の糧も意味するといいます。私たちの身体が、ちゃんとした食事があってこそ健康が保たれるように、私たちの心や魂も、神様の御言葉という、ちゃんとした心の糧があってこそ、心や魂の健康を保つことができるのです。その心の糧について祈ることにおいても、私たちは「われら」として祈るように勧められているのです。

私はこのメッセージを準備する中で、反省させられたことがあります。以前、ある先生が、「よく『今日、礼拝に来ることのできなかった方にも同じ恵みがありますように』と祈る人がいるけれども、それは違うと思う。来なかった人も同じ恵みがあるなんてあるはずがない。来た方が断然恵まれるに決まっている。」って言われて、私も何となくそういう思いを持っていたのです。でも、今回読んだ本の中で、「この『われら』とは、イエス様が愛しておられる者のすべての者だと言うことを忘れてはならない。どちらが恵まれるとか、そんな議論をすることはおかしい。今ここで主の恵みにあずかる喜びを味わえば味わうほど、ここにいない、他の人のことなどどうでもよいとは思えないはずだ。この恵みは全ての人にとって大切なもののはずだ」、そう書いておられたんですね。私は、これから祈る時、こういう祈りがささげられる者でありたいなぁと、思わされたのでした。こうしてわれらとして祈る、それが主の祈りに生きることだと思います。

 

結び:

もしかすると、私たちは気付けば「わたし」の祈りになっているかもしれませんね。私たちはもう一度自分の祈りを見直し、イエス様の十字架に土台した父なる神様への祈り、その神様の前の「われら」の祈りをささげる者とならせていただきましょう。