2019年4月21日のメッセージ(音声視聴できます)

ルカによる福音書第24章13節~32節

この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

 

「イースターのお話」

 

イースターおめでとうございます!

イースターとは何の日かご存知でしょうか?なんとなく卵とウサギが中心のイベントのような感じですよね。

実は、イースターは復活祭と言って、イエス・キリストの復活を記念する日です。十字架の上で死んだキリストが3日後に復活し、弟子たちの前に現れたことを記念する日であります。

では、なぜ卵とウサギなのか?

それはどうもイースターという言葉と関係があるようです。

イースターという言葉は聖書にでてきている言葉ではなく、後からできた言葉です。そしてその語源は、諸説あるようですが、ゲルマン神話の春の女神エオストレから来たと言われています。

エオストレは多産の象徴である野ウサギを従えており、また、卵は新しい命の象徴でありました。野ウサギたちは春の訪れを感謝するため、春色に塗り分けた綺麗な卵をエオストレにプレゼントしたところ、エオストレは大変喜び、卵を春風と共に皆に配ったということであります。このお話しから、特に欧米(ヨーロッパやアメリカ)では卵とウサギがイースターに欠かせないものとなっているようなのです。

礼拝にお越しいただいた皆様に、イースターエッグをプレゼントさせていただきますが、この卵は新しい命の象徴であり復活の象徴です。

 

さて、先日、世界の宗教人口を調べてみましたところ、

1位.キリスト教(世界人口の約32%)

2位.イスラム教(世界人口の約23%)

3位.ヒンドゥー教(世界人口の約15%)

4位.仏教(世界人口の約7%)

とありあました。

実に、世界の人たちの3人に1人がクリスチャンであるということでした。このキリスト教は今から約2000年前にはじまりました。ちなみに、私たちが普通に使っている西暦とは、イエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年としたものであります。

 

キリスト教のイベントと言えば、何を思い出されますか?多くの日本人はクリスマスをイメージされるのではないでしょか。

しかし、実は、イースターはクリスマスよりも重要な日であるとも言われています。なぜならば、キリスト教のスタートはイースターである、つまりイエスキリストの復活であると言っても過言ではないからであります。

イエス様の復活を目の当たりにした弟子たちが、そのことを伝えたからこそ、今日のキリスト教があるわけであります。

イエス様の復活がもしなかったとしたらどうでしょうか?イエス様がいかに素晴らしく、超人的な人であったとしても、イエス様は十字架という当時の一番残酷方法で罪人として処刑され、死んでしまっています。そんな、死んでしまって今はいないイエス様のことを、弟子たちが、この方は「甦られた」、そして「神の子です」、「救い主です」と人々に伝えることができたのでしょうか?そんなことはできないように思います。

むしろ、イエス様の弟子たちが、本当に甦られたイエス様に出合ったからこそ、イエス様のことを、この方こそ「神の子です」、「救い主です」と多くの人たちに心から伝えることができたのではないでしょうか

聖書にパウロという人物が出てまいります。彼はイエス様が復活することなどありえないと考えていました。とてもあたりまえな考えのように私も思います。そして、パウロは弟子たちに対して、イエス様が復活されたと言って民衆を惑わす貴様らは赦せない。そのように考えて、パウロはクリスチャンたちを捕まえ牢獄にぶち込んでいました。

しかし、そのパウロが復活したイエスキリストに出合ったのです。その出会いの経験がパウロの行動を一変させました。全く変わったのです。パウロは誰よりも熱心に、命懸けで、イエス様が私たちの救い主である、神の子であると伝えたというのです。

そして現在、約2000年経った今、世界の人たちの3分の1がイエス様を救い主として信じているのであります。

 

十字架の上で死んだキリストが3日後に復活したなどということは、信じるに値しないことのように思うことでしょう。しかし、もし、この宇宙を創造され、私たちを創造した神が存在し、その神様がこのことをなさったと考えるならば、イエス様の復活もあり得るのではないでしょうか。

 

さて、先ほど読んでいただきました聖書のところをご一緒に見ていきたいと思います。

イエス様が十字架につけられ処刑されて3日目の出事です。二人のイエス様の弟子がエルサレムの町を離れヱマオという村に向かっています。その途中で、復活されたイエス様と出会いました。彼らはイエス様と話しながら歩いていました。しかし、イエス様であるはとわからなかった。最後に目が開かれイエス様だと分かった。

ざっくり言うと、こんなことではないでしょうか?

 

今朝は、この中に書かれてあります3つの聖書の言葉を軸に、お話をさせていただきます。

 

まず初めに、二人の弟子たちは、どんな思いでエマオの村に向かっていたのかを考えてみたいと思います。

弟子たちはイスラエルを救うのは、この方しかいない。そう考えて、イエス様に望みをかけて、決断し、人生をかけて、イエス様に従っていった人たちでありました。

ちょうど一週間前に、イエス様は子ロバに乗ってエルサレムの町に入られました。その時はイエス様を大勢の人たちが熱狂的お迎えしていました。その様子を見て、弟子たちは、イスラエルを救う時が間近に迫っていると、そう思ったことでしょう。

しかし、事態は急変しました。イエス様は祭司長や役員たちのねたみにより捕らえられました。そして、十字架につけられ、処刑され、死んでしまった。

弟子たちがその事実を目の当たりにしたとき、彼らはどう思ったのか?希望を失い、非常に落胆し、大きな喪失感を味わっていたのではないでしょうか?

13節に二人の弟子たちがエルサレムからエマオに向かっていた、と記されています。このエルサレムの町というのはイスラエルの人たちにとって、そして、弟子たちにとっても神の国が設立される希望の町を意味していました。その希望の町から「エマオ」その意味は「温かい井戸」という意味だそうですが、温かい井戸の村に向かっている弟子たちでありました。

そんな弟子たちの姿を想像し、現在の私たちに当てはめて、もしかしたら、そんな方がいらっしゃるのではと思いめぐらしてみました。

今は4月です。特にこの季節、夢と希望に胸膨らませ、あるものは進学し、あるものは就職し、あるものは新しい地に行きます。しかし、現実は厳しく思った通りにいかない。もしかしたら、そんな方がいいらっしゃるかもしれません?

夢を実現しようと、頑張っているのだけれども、どうしてもうまくいかない。そんな方がいいらっしゃるかもしれません?

家族のために、愛する人のために、こんなに努力しているのに全然うまくいかない。もしかしたら、そんな方がいいらっしゃるかもしれません?

思った通りに事が進まず、希望を失いかけている、目標を見失いかけている。

そんな方がいいらっしゃるかもしれません?

つらさや、悲しみの中にいる。

もしかしたら、そんな方がいいらっしゃるかもしれません?

 

15節をご覧ください。『イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 』とあります。

イエス様は希望を失い落胆している弟子たちに、「イエス様の方から近づいてきてくださった。そして、歩幅を合わせて一緒に歩いてくださった」イエス様はそんなお方だというのであります。

イエス様は希望を失い落胆している者に、「イエス様の方から近づいてきてくださる。そして、歩幅を合わせて一緒に歩いてくださる」そんなお方だというのであります。

 

次に、31節を見てまいります。

31節『彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。』

イエス様は弟子たちに、まず、信じることを求められました。そして聖書を解き明かされました。

25節~27節をお読みいたします。

『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 』

続いて29節をお読みいたします。『しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。』

失意の中にあった弟子たちは、イエス様と一緒に歩き、聖書の解き明かしを聞くうちに、今度は弟子たちが、もっともっと一緒にいたいと願うようになったというのです。そして、イエス様と一緒にいたいと願い、イエス様を家に招きました。その結果どんなことが起こったのか?

31節、『彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった』、というのです。

二人の弟子たちが復活のイエス様に最初に出合った時、彼らはイエス様を見てはいたのですが、16節にありますように『彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。』、つまり、見えていなかったというのであります。

私たちはイエス様を見ることができません。しかし、聖書を学び、イエス様のことを知り、「イエス様を私の救い主であると信じたい」、「イエス様と共に人生を歩んでいきたい」と願い、求める時、私たちの目が開かれて、今もイエス様は生きておられて、私と共にいてくださる、ということを認めることができるようになる、というのであります。

「本当にそんなことがあるのかなぁ」と思うわけでありますが、私自身も高校1年生の夏、中高生向けに行われたバイブルキャンプで『キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。(ガラテヤ人への手紙2章20節)』という聖書の言葉を学び、家に帰ってもう一度その聖書の箇所を読み返していたときに、まさに目が開かれるかのように、「神様は生きておられる」しかも、「私のうちに生きておられる」と「はっきりとわかった」、認識できた経験をいたしました。そして、イエス様を信じるものとなったわけです。

なぜわかったのか、そのことは自分でも理解できていません。只々、神様に目を開いていただいたのだと思うばかりです。

もう一度お読みいたします。『彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった』弟子たちの目が開かれたように、あなたも、求めるとき、必ず、目が開かれ、イエス様がわかる、ということでございます。

 

最後に32節を見たいと思います『 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。』

希望を失い落胆していた弟子たちの心が内に燃えたというのです。

イエス様と共に歩むとき「心が内に燃える」というのであります。

燃えるためには燃料と火種が必要ですよね。失意の中、燃料切れで、生きる力を失った者の心に、イエス様は燃料を注ぎ、火をつけて、希望と力を与えてくださるというのです。

点火スイッチはどこにあるのか?それは、イエス様の方に目を向けることであります。自己中心的な生きたかをやめて、私を命がけで愛してくださっているという、神様に目を向けて生きていく。自己中心から神中心に方向転換することであります。このことをキリスト教では悔い改めと言います。

自己中心から神中心に方向転換して、イエス様と共に歩むとき、私たちの心が喜びに満たされ、うちに燃えるのであります。

 

最後にもう一度、今日皆さんとご一緒に見てまいりました、3つの聖書の言葉を振り返りたいと思います。

まず15節をお読みいたします。

『イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。』

イエス様は希望を失い落胆している者に、「イエス様の方から近づいてきてくださる。そして、歩幅を合わせて一緒に歩いてくださる」そんなお方だというのであります。

次に、31節をお読みいたします。

『彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。』

私たちはイエス様を見ることができません。しかし、聖書を学び、イエス様のことを知り、「イエス様を私の救い主であると信じたい」、「イエス様と共に人生を歩んでいきたい」と願い、求める時、私たちの目が開かれて、今もイエス様は生きておられて、私と共にいてくださる、ということを認めることができるようになる、というのであります。

最後に32節をお読みいたします

『 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。』

たとえ希望を失い落胆していたとしても、イエス様と共に歩むとき、私たちの心が喜びに満たされ、うちに燃えるのであります。

 

聖書は言います。

「イエス様は甦られて、今も生きておられます。そして、あなたを愛しておられます」と。

このことを記念する日が、イースターなのです。