2019年3月24日のメッセージ(音声視聴できます)

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マタイによる福音書第6章1節~8節

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。

だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。

あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

 

「隠れたところを見ておられる父」

 

 

今、キリスト教関係の本で、一般の書店でも売られて人気がある本があります。それは、『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』という本です。もともとは、上馬キリスト教会という教会がtwitterで発信しているものが話題になり、それが書籍化されたものです。とても読みやすい本ですし、タイトルの通りに、本当にゆる?い本でして、初心者の方にはとても読みやすい本です。また、大きめの書店であれば必ず手に入ると思いますので、機会があればお買い求めくださったらと思います。

そんな上馬キリスト教会のtwitterで、先日このようなことが書かれていました。

「クリスチャンにとって礼拝はお風呂のようなものです。お風呂は入る前は『めんどくさいな』と思っても入った後に後悔する人はいません。礼拝も行く前は『めんどくさいな』と思うこともありますが、行った後で後悔することはありません。お風呂で体がさっぱりするように、礼拝で心がさっぱりするんです。」

表現の仕方に賛否両論あるかもしれませんが、なるほど、とも思わされますよね。礼拝説教だけではなく、讃美歌を歌うこと、また全体の雰囲気や皆さんとの交わりなども含めて、確かに礼拝は心がさっぱりできる時間だと思います。心の汚れを洗い落とし、さっぱりとしてここから遣わされてまいりたいと思います。

 

さて、マタイによる福音書から続けて学んでいますが、今日から6章に入ります。5章のところでは、当時の律法学者やパリサイ人たちがこだわってきた律法について、イエスさまがひとつひとつ再解釈して、神さまの前に歩む歩み方を語ってこられました。6章に入って、その律法についての部分は終わっていますけれども、今日読んでいただいた箇所には、「施し」と「祈り」が出てきます。そして16節には「断食」が出てくるのですが、実はこの3つというのは、当時のユダヤの人たちが、自分たちの信仰生活を営む上で最も大切な具体的な行為であると考えて実践していたことなんですね。そういう意味では、イエスさまは、神さまを信じる者が具体的にどう歩んでいったらよいのか、引き続き語っておられるわけです。今日の箇所では、「施し」ということと「祈り」ということが出てきますけれども、「隠れたことを見ておられる父」という題で、それぞれについて考えてみましょう。

 

1. 施しをする時には

1節はここから語られるテーマの緒論のようなところです。それをふまえて、まず2~4節にあります、「施しをする時には」ということで考えてみましょう。ユダヤ人の社会というのは、富を分け合い、生かし合うという点では、とてもすぐれた社会であったようです。律法に基づいて、様々な機会において施しをするように促され、勧められたんですね。それは尊いことでありましたし、イエスさまも否定はしていません。神さまへの信仰が、実際の行いに現れてくる。これはとても大切なことです。

しかし問題だったのは、そういう生活の中に、くずれが、ほころびが生まれてしまったことですね。2節を見ますと、「施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。」とありますね。本来は神さまへの信仰のあらわれだったはずの施しが、「人にほめられるため」のものになってしまっていたわけです。

2節に「自分の前でラッパを吹きならす」とありますが、ある本にこんなことが書かれていました。当時集会の席で、ユダヤ教の教師であるラビが説教をして教えた後に、施しが勧められたそうです。そうするとそれに応答するようにして、人々が献金や献品の額を申し出るんですね。そうしましたら、その金額が高い人は、そのラビのそばに座らせられるというんです。みのおの教会で言ったら、この最前列ですかね。そして特に金額が高い時には、ラッパを吹きならした、ということがあったらしいんです。「そこまですんの!」と、思ってしまいますけれども、本当にそうだったらしいです。

でも、そういう状況の中で施してもらう人の気持ちを考えて見たら、施される側はたまったもんじゃありません。施す側が派手に評価されればされるほどに、その施しを受ける自分は、とてもみじめに思うと思うんです。でも実は、いつもこんな風に大げさに施しをしたわけではなかったようです。神殿の中に“沈黙の部屋”というのがあり、施しをしたい者は黙ってそこにお金や金品を置いて帰る。そして困っている者も、黙ってひっそりそこに入り、そこにあるものを得て帰る。そういう仕組みもあったんですね。困っている他人を、見て見ぬふりしない社会です。ですから当時のユダヤの社会は施しということにおいて優れていました。

そうであるなら、この問題は一部の目立つ人たちへの注意なのか。決してそうではないと思うのです。2節で「偽善者」という言葉が出てきますが、これは俳優や役者を意味する言葉だそうです。これは、人に対してよい自分を演じるということですよね。けれどもイエスさまは、3節で「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。」と言われています。右の手も左の手も自分ですから、自分が自分に対してもお芝居をしていないか。自分で自分を評価しようとしていないか。自分の目にも自分の義を見せようとしているんじゃないか。イエスさまはそのことを問われているというんですね。

確かに考えてみれば、私たちは基本的な心の思いとして、誰かにほめてもらうことを求めていると思うんですよね。そして誰かにほめてもらえない時には、自分で自分をほめているんじゃないでしょうか。「私、結構頑張ってるやん」「いいぞ、わたし!」。でも、それって実は、2節にありますけれども、「その報いを受けてしまっている」ということになります。つまり、限られた目に見える所でしか評価できない、人間の目で見た報いで終わらせてしまっている、ということなんですね。本当なら、4節で「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」とありますように、全ての事情や状況・私たちの思いをわかっていて、その上で「よい忠実なしもべよ、よくやった」と言って下さる神さま。そして人間はほめて、つまり評価して終わりだけれども、全知全能の神さまは、その事に対して具体的に報いて下さる。その神さまの報いを期待して歩む。その生き方をイエスさまはお示しになっているんですね。

もしかすると、「目に見えない神さまよりも、目に見える誰かにほめてもらいたい。その方が励まされる。」と思う方もおられるかもしれませんね。私自身もそういう部分がある気がします。でもそれってよくよく考えてみると、神さまが生きていないんじゃないでしょうか。そこにこそ、私たちの信仰が問われていると思うのです。目に見える人の言葉と同じように、いやそれ以上に、リアリティのある言葉として、神さまの励ましを受け取る。そこに私たちの信仰を働かせたいと思うのです。

 

2. 祈る時には

もうひとつのことは、5節以降のところから、「祈る時には」ということで考えてみたいと思います。先ほどもお話ししましたが、ユダヤ人たちにとって「祈り」は、自分たちの信仰生活を営む上で最も大切な具体的な行いのひとつであると考えて、実践していました。ですから、彼らはことある毎に祈ったんですね。神さまに祈りをささげている姿を、会堂や町の大通りで見かけたわけです。ただ、それが純粋に神さまへの信仰を表す行為ではなく、人に見せようとして大きな声で祈っていましたので、それは問題だとイエスさまに指摘されたわけです。でも私たち、正直言って、そこまで祈りに熱心とまでは言えないのではないでしょうか。もちろん、日々の生活の中に祈りはあります。でも行き過ぎるほど熱心ではない私たちは、このイエスさまのお言葉をどのように受けとめたらいいんだろうか…と思わされるのです。

そうやって考える時に、ここには祈りということの本質が描かれているように思うんですね。イエスさまが薦めておられる祈りとは、どのような祈りでしょうか。6節をお読みします。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」。イエスさまは、祈りの時には自分の部屋に入り、戸を閉じて祈れといわれました。この「自分の部屋」というのは、納屋や物置などに用いられた部屋で、窓が全くなく、内側から戸を閉じると真っ暗になってしまう部屋だったようです。「そうか、真っ暗な中に閉じこもって祈るのか。よしそうしよう!」と思っても、なかなかそういう部屋がなかったり、実際そこに閉じこもったら、真っ暗で聖書も開けませんね。

ここでイエスさまが言われた、本質的なところは何か。加藤常昭先生という先生がその著書の中で書いておられたんですが、これは、祈りにおいて、外からの光を遮断しなさいということなのだそうです。それは、外から見られている目、もっといいますと、人の評価を絶ち切ることだというんです。人から「ああ、あの人は祈っているな」と言われて、自分も「ああ、私は祈っているんだ」と安心する、そういう心を絶ち切ることだというのです。ですから、「これからお祈りしまーす!お祈りの部屋に入りまーす!」と大きな声で宣言して密室に入るのは、違いますね。部屋の外も内もない、周りの目によって自分は祈りの人とみなされ、その事によって自分は祈っている気になっていることはないでしょうか。

さらに加藤先生は、私たちが「祈れない」と言って嘆く時にも同じことだ、と述べられているんですね。私たちは時折「祈れない…」と言うけれども、祈れるとか祈れないとかいうことを、何によって測るのか。その祈りを測るものさしとして、自分が自分を見ることをやめなさいと、イエスさまは語っておられるのです。私たちはついつい、そうやって周りの目や自分のイメージで祈りをコントロールしてしまうんですね。7節には「異邦人のように、くどくど祈るな」とありますが、これは異邦人が神さまの名前を次から次へと挙げて、神さまに出てこさせようとする、まさに神さまをコントロールする祈りだったんですね。

もしかすると私たちの祈りも、そのような神さまをコントロールしようとするような祈りだったかもしれません。自分では意識していませんでした。自分では神さまに呼びかけ、神さまに願い求め続けることが、自分の信仰のあらわれだと、信じていました。でも、もしそれが神さまをコントロールしようとする祈りだったとするならば、私たちは神さまの前に、もう一度自分自身の祈りについて考える必要があると思うのです。

では、祈りとは何でしょうか。6節をご覧ください。「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、“隠れた所においでになる”あなたの父に祈りなさい」。私たちが祈ろうとするその時、そこには神さまがおいでになるのです。私たちが祈るということは、人の目からも、自分の目からも解放されて、目には見えないけれども確かにそこに神さまがいてくださるということを、信じること。そして、その隠れた場所において、神さまが愛のまなざしを自分に向けていて下さることを信じて、その神さまの目にだけ、自分自身をさらけだす、ということなのです。自分自身のありのまま、全てを神さまに見ていただく時間。それが、祈りの時なんですね。

そして神さまは、8節にありますように、「求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じ」でいてくださるお方です。私たちが祈れるとか、祈れないとか、そういうことで救いを左右されるような、そんなちっぽけな神さまではありません。私たち自身以上に、私たちの求めや必要を知り、私たちが期待していた以上の方法で私たちの求めを満たして下さるお方なのです。私たちは、この神さまのまなざしと出会う、そういう意味での隠れたところにある神さまのまなざしに、触れさせていただく祈りをささげる者として、歩ませていただきましょう。