2019年3月17日のメッセージ

マタイによる福音書第5章38節~48節

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

「天の父が完全であられるように」

 

季節の変わり目を迎えて天候が不安定な時期になっていますが、特に今は花粉の季節で、アレルギー症状が出ている方は本当につらそうです。今年は特に花粉の飛散量が多いようで、今年が花粉症デビューという人も多いのだと、NHKのニュースでもやっていました。確かに、我が家の下の娘も、今年から花粉症の症状が出て大変苦しんでいます。花粉症は、誰でも発症する可能性があるそうです。花粉が体内に取り込まれていく中で、その人の一定値を超えると症状が出てくるそうです。私はありがたいことに花粉症ではありませんが、でも明日は我が身、私も花粉症になるかもしれません。

花粉症だけではなくて、私たちはいつも、今日と同じ平穏な日が明日も続くと思っていますけれども、本当は明日何が起こるかはわからないはずなんですね。誰も東日本大震災のような災害が起こることは考えていませんでした。でもだからこそ、何が起こっても頼りにできるものをしっかりと持っていることが大切です。それがまさにこの聖書の語る神さまですし、今日もその神さまからのメッセージとして、聖書の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。

さて、ずっとシリーズで、イエス様の語られた山上の説教から学んでいます。特に今のところは、二重のカギ括弧で書かれています、当時の時代に重んじられていた律法をひとつひとつ取り上げて、イエス様がその事について再解釈して、私たちが神さまの前にどう生きたらよいのかを丁寧に教えて下さっています。今日も二つの律法が取り上げられていますので、それぞれについて見てまいりましょう。

 

1. 目には目を、歯には歯を

まず38節にあります、「目には目を、歯には歯を」というところを見ていきたいと思います。これは聖書とは関係のない一般のところでも言われる表現です。その場合、これはまさに復讐の時のかけ声のような使われ方をしますし、仕返しすることを認めているようにも聞こえます。でも実は、これは復讐についてではなくて、損害賠償についての律法なのです。「目には目を」、目を傷つけられたら目を傷つけ返しなさいということではなく、目をやられたら目だけにしなさい、必要以上の損害賠償請求をしてはいけないよ、という事なのです。しかし、当時の時代においても、これは復讐を肯定する律法とされていました。

いつの時代も、人はやられたらやり返したい、しかも、チョット古いですけれども「倍返しだ!」と、多くやり返したいのです。以前いた教会での出来事ですが、娘とも時々遊んでくれた、ちょっと年上のお姉さん(小学4年生くらいでしょうか)が近所にいたんですけれども、とってもかわいい女の子なんですね。ある時新しく自転車を買ってもらいまして、それが嬉しかったんでしょう。教会の前で楽しそうに乗っていたんです。そしてなぜかその弟もちっちゃい自転車でそのあたりをぐるぐる疾走していたんですが、ふとした弾みにお姉ちゃんの自転車にぶつかって、二台とも転んでしまったんです。そうしましたら、あのカワイイお姉ちゃんがそれこそ鬼のような形相になって、右から左から両手をぶん回すようにして、バシバシバシ!っと弟をはたき始めたんですね。ちょうど教会の方がそばにおられて、慌てて止めに入ったんですけれども、あのパンチとあの顔は本当に凄かったですね。衝突には衝突をではなくて、衝突には拳100発を、と言わんばかりでした。やられたら、怒りにまかせてとことんやり返したい。それが私たちの本性ですけれども、この律法はそれをとどめているのですから、その時点で既に大変すぐれた律法であると言えます。

でもイエス様は、そのすぐれた律法でさえも再解釈されて、新しい生き方、一段上の生き方を示されているんです。特にここでは、四つのことを具体的に挙げています。39節の「右の頬を打つなら」というのは、単に暴力を受けたらということではなく、“侮辱”されたら、という意味です。40節の「下着を取ろうとする」というのは、“略奪”ですね。41節の「しいて一マイル行かせようとするなら」、これはクレネ人シモンがイエス様の十字架をしいて負わせられたように、理不尽に“強要”されることを意味します。そして42節の“求める、借りる”は、自分を傷つけた人が自分に何かを要求したときに、「断るな」ということです。

これらは、自分の大切なものが奪われたりするようなことがあっても、我慢しなさい、忍耐しなさい。そう言われているようにも聞こえますね。ですから私たちの心の内に湧いてくる思いは、「無理です!できません」ということ。そして、「なんでそんなことせなあかんのですか?」という思いです。イエス様は、明確に「○○だからです」とは言われていません。しかしこれは、「やられたらやり返すという思いから、自由になりなさい。」という、イエス様の勧めなのではないでしょうか。どうすれば私たちは、その自由に生きることができるのでしょう。

そもそも、「やられたらやり返す」という場合、やられた時点で私たちは深く傷ついているんですよね。まずは、その傷を癒やしていただくことです。イザヤ書53:7に、「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」とあります。まさにあの十字架のイエス様は、この理不尽の全てを受けて、奪われ傷つけられています。でもその最低最悪の痛みを通られたイエス様によって、私たちの深く傷ついた傷は癒やされるのです。

そして、傷ついた私たちは、そのことによって自分に自信がなくなってしまいます。自分が間違っているから、自分が悪かったから、こんなに傷つけられたんじゃないか…。でも神さまは、「そうじゃないよ、わたしはあなたを愛している、あなたはわたしの目には高価で尊い」。そう言ってくださるのです。そうやって自分が神さまに愛されていることで、自分を受けいれ、自分に自信を持って立ちあがる時、何をされても大丈夫!と、「やられたらやり返す」から自由にされていくのです。48節に「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とありますが、神さまは、私たちを愛することにおいて完全です。その愛によって傷が癒やされ、神さまに愛された者として自信を持って生きる、それが私たちの完全なのではないでしょうか。

 

2. 隣り人を愛し、敵を憎め

もうひとつのことを見ていきたいと思いますが、それは43節にあります、「隣り人を愛し、敵を憎め」ということです。まず「隣り人を愛し」ということですが、レビ記19:18には、「あなた自身のようにあなたの隣人(りんじん)を愛さなければならない」と書かれています。隣り人を愛することは、確かに律法で決められたことです。しかし律法には、「自分の敵を憎め」という教えはないんですね。ユダヤ人たちは、バビロン捕囚以降、まことの神さまを敬わない異邦人の支配のもとに置かれ、長い間はずかしめを受けてきました。その事から、パリサイ人や律法学者たちは、異邦人や神さまに敵対する者たちを自分の敵と見なして、その人々を「憎め」と教えていたんです。

しかしイエス様は、そこにズバッと切り込まれました。44節、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。愛せる同胞を愛するのは当然のこと、大前提。その上で、敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい、と言われたのです。これもまた、ひとつ上の生き方です。なぜそのようにしなければいけないのでしょうか。45節以降を見ると、天の父、これは神さまのことですが、神さまは「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださるからである」と、イエス様は言われます。敵、敵と言いますが、神さまの目から見たら、敵はどこにもいないのです。私たちが勝手に敵を作って、敵を憎んでもよいとしている。しかもここに「迫害する者」と出てきますから、「自分から見て敵」というのではなく、「自分のことを敵と見る人々」のことです。つまり、誰か敵を作るという発想そのものが、実は神さまを知らない者の発想なんです。世の中はその発想で満ちていますけれども、それに飲み込まれるな、敵なんかいないんだ、神さまは全ての人を愛しているんだ。全ての人を愛する愛において、神さまは完全だ。そう言われているのではないでしょうか。

そしてパウロはローマ5:10で述べます。「もし、わたしたちが神の敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば」。敵とは、私自身に他ならなかった。神さまの敵だった私が、あのイエス様の十字架によって罪をゆるしていただいて、神の子とされている。ゆるされ、愛された者として、私もまた、愛の完全を目指したいと思うのです。

 

最後にマーガレット・コヴェルという人のことをお話しして、終わりたいと思います。1945年12月8日、真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まりましたが、その飛行戦隊を率いた総隊長が淵田美津雄(フチタ ミツオ)という海軍中佐です。淵田氏は戦後クリスチャンとなり、伝道者となりましたが、そのきっかけとなった出来事があります。

終戦後、連合国による戦犯裁判が始まった時、淵田氏はこの裁判に疑問を持ち、連合国側も非人道的な行為をした証拠を集めるために、捕虜だった人々に取材をしたんです。ひどい扱いを受けた捕虜もいましたが、アメリカのユタ州から帰還した兵士たちがある出来事を語りはじめました。20人ほどの重傷者たちでしたが、ある町の捕虜病院に収容されました。そこで1人の20歳前後の若きアメリカ人女性が現れ、日本人捕虜に懸命の奉仕をし出したそうです。それが、マーガレット・コヴェルという人でした。本当に献身的に支えてくれたそうです。捕虜たちは心うたれて、「お嬢さん、どういうわけで、こんなに私たちを親切にして下さるのですか?」と聞いたそうです。

彼女はしばらく黙っていましたが、やがて語り始めました。「私の両親があなたがたの日本軍隊によって殺されたからです」。彼女の両親は宣教師でしたが、フィリピンのマニラで日本兵にスパイの嫌疑をかけられ、日本刀で首をはねて殺されたのだそうです。アメリカでそれを伝え聞いたマーガレットは、両親を失った悲しみと、処刑した日本兵に対する怒りでいっぱいになりました。しかし、アメリカ軍の報告書には、このとき目撃していた現地人の話として、両親が最後まで心を合わせて熱い祈りをささげていたことが書かれていたのです。マーガレットは、両親が何を祈ったかを思ってみました。すると彼女は、自分がこの両親の娘として、自分の在り方は、憎いと思う日本人に憎しみを返すことではなく、両親の志をついでキリストを伝える宣教に行くことだと思ったそうです。そのはじめとして、この病院で仕えていたということなのです。この話が淵田さんの心を激しく打ち、「憎しみに終止符を打とう」と捕虜虐待の調査をやめたのだそうです。敵を作らない生き方が、波紋のように広がっていったのです。

 

結び

イエス様がお示しになる、ひとつ上の生き方。「完全な者」を目指す生き方。これは単に、私たちに我慢しなさい、頑張りなさいと言っているのではありません。自分ではできないように思うことも、「天の父が完全であられるように」、神さまというお方を根拠にする時にこそ、その生き方に生きることができる。戦いがないわけじゃないけれども、葛藤しながらでも、この生き方を選んでゆくことができる。そう信じて、今日もここから遣わされてまいりましょう。