2019年2月24日のメッセージ(音声視聴できます)

マタイによる福音書第5章27節~37節

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。 

また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。

 

「神の基準に生きる」

 

今日もこうして、皆さんと一緒に御言葉を分かち合うことができますことを、心から感謝しています。先週は四泉講壇交換礼拝式ということで、私は三田泉キリスト教会に行ってきました。10時半からの教会学校にも参加し、11時からの礼拝でご奉仕させていただいたのですが、今年小学校に入学する男の子が一人いまして、昼食後に、ジェンガという、積み木のブロックを崩さないように抜いて、積み上げていくゲームで一緒に遊びました。楽しく遊んでいたのですが、ゲームが進むにつれて積み木が高く積み上がっていき、だんだん不安定になってきました。それで緊張してきたのか、その男の子は「怖い~」と言いながらうろうろし始めたのです。そして、うろうろしながら思わず口からこぼれてしまったひとことが、「負けたくない~~~!」でした。それがもう、本当に心の叫びのようにつぶやいたものですから、そこにいた大人はみんな思わず吹き出してしまいました。

子どものいいところは、本音をそのまま出せることだと思いますし、それを受けとめてくれる環境で育つことはとてもよいことだと思います。でも、大人になると、なかなか自分の本音を出すことができない状況が多くあり、それがストレスになってしまうこともあります。でも、聖書の語る神様は、私たちがなかなか出すことのできない本音を受けとめて下さるお方です。そういう思いを持って、今回も御言葉に耳を傾けたいと思います。

 

さて、マタイによる福音書第5章から書かれている、イエス様の語られた「山上の説教」から、シリーズで学んでいますが、特に21節以降のところでは二重のカギ括弧でくくられた言葉がいくつか出てきます。これは、当時のユダヤ人たちが大切にしていた律法です。その律法について、「これまではこう聞いてきましたよね。でも私は言います、このように理解しなさい」と、イエス様が律法を一つ一つ再解釈されているわけです。今回取り上げるのは、『姦淫するな』ということと、『いつわり誓うな』ということですが、それぞれについて「神の基準に生きる」ということをテーマにして、考えてみたいと思います。

 

1. 姦淫するな

一つ目は、27節にあります『姦淫するな』ということです。これは前回学んだ『殺すな』と一緒で、十戒において戒められている、7番目の戒めです。これは、いわゆる性的なことで不適切な行為に及ぶことを指しているわけですが、それをこうしてオープンに取り上げることを戸惑う方もおられるかもしれません。でもイエス様はこうして「殺すな」の次に取り上げているわけですから、とても大切な、取り上げるべき問題なのです。

そして、「姦淫するな」と言われたならば、「はい、しません。していません。」と読み過ごしてしまう方も多いのではないでしょうか。しかしイエス様は28節のように言われます。「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。実際に行動に及んでいなくても、そういう目で人を見るならば、姦淫の罪を犯したのと同じだ。イエス様は、心の中の問題にまで切り込んできているのです。このイエス様の表現からすると、イエス様は心の内にわき上がる性欲そのものさえも、問題だと言われているように聞こえてしまいます。

 しかし、実はイエス様は決して性欲そのものを完全否定しているわけではありません。人が子孫を残してゆくためには、性欲も大切な欲求です。ここでイエス様が問題視した「情欲を抱いて女を見る」ということ、これは新共同訳聖書では「みだらな思いで“他人の妻”を見る」と訳されています。このもとの言葉は「女」とも「妻」とも訳せる言葉です。イエス様がここで“心の中での姦淫”として戒めておられるのは、女性一般に対して、性的欲望を抱くことではなくて、既に結婚して夫のある、家庭がある「他人の妻」である女性にそういう思いを持つことを咎めているのです。実際、当時のユダヤ人社会においても、結婚している者が妻や夫以外の者と性的関係を持つことこそが、姦淫の罪でした。そしてそれは厳しく罰せられたのです。イエス様はそれを心の中の思いまで問われているのです。

ですから姦淫とは、本来は神様がお決めになった、神様の祝福であるはずの夫婦関係を軽んじてないがしろにし、自ら破壊していってしまうこと。そのような生き方を指しているのです。31節で取り上げられていることも、結局のところ姦淫が夫婦関係を破壊しているということなのです。

そして、さらにイエス様はこう言われます。29~30節、「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」。これは、かなり過激な表現ですよね。姦淫の罪を犯させるような目は、手は、捨ててしまえ!一緒に地獄に落ちるよりマシだ!「うわっ、怖い」と思います。

でも、このことは、言い換えれば、姦淫につながってしまうようなところはかなぐり捨ててでも、相手と一緒に生きていく、そういう生き方を示しているということなのではないでしょうか。イエス様はここで姦淫ということを取り上げながら、相手との関係を壊す生き方に身を置くのか、それとも何をしてでも、何を乗り越えてでも相手と共に生きてゆくのか、その二つの生き方を私たちに提示しているのです。その意味では、男性だけではなく、女性もまたこの生き方を問われている。そう思うのです。そして、後者を選ぶことは益だと、イエス様は述べるのです。私たちは、イエス様がイエス様の基準において「益」といわれる、関係を紡ぐ生き方を選ぶ者でありたいと思うのです。

ちなみに申し上げておきますと、「そうか、これは人の妻を見るときだけなんだ。他のことでは多少神様大目に見てくれるだ」。とは思わないで下さい。性欲に捕らわれるということは、そのことばかりを考えて、本来私たちが人を思いやったり、神様のことを考えたりする時間を際限なく奪ってしまいます。そして、世に多く溢れている性欲を刺激するものは、歪んだ性を、さも当たり前のように私たちに植え付けてゆきます。男主体の女性を傷つける性欲のあり方です。ですからそれらに心捕らわれることは、やっぱり正しい男女関係のあり方を壊していってしまのです。そういう意味でも、関係を壊さない、紡いでゆく、健全な生き方を選んでいきたいと思うのです。

 

2. いつわり誓うな

さて、もう一つのことは、33節のところにあります『いつわり誓うな』ということです。誓いということで皆さんが思い起こすのは、どんなことでしょうか。例えば、3月の終わりになると、高校野球の春の選抜があります。その甲子園での開会式では、「選手宣誓」をします。「宣誓!我々はスポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います」。まさに誓いです。また、結婚式の誓約なんかもあります。「あなたは、健やかな時も病める時も、この人を愛し敬い、命の限りこの人と共に生きることを誓いますか?」これも誓いですよね。そういった、何か公式な場や、特別なときに誓うということがあるでしょうけれども、じゃあ自分の実際の生活の中で“誓う”ということがあるかといえば、なかなかピンときません。これは、当時の人たち、特に律法を守っていたパリサイ人や律法学者たちの習慣をひもといてゆく必要があります。

当時のユダヤ人たちの習慣として、自分の信仰を表すために神様の前に誓うということがなされていました。その誓いについては、律法の中で、「わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない」と定められていましたので、神様の前に誓ったことはちゃんと果たさなければいけませんでした。人前で格好良く誓いたい。でも、誓ったことは果たさなければいけないし、うかつに誓うと律法違反になる…。そこで彼らが編み出したのが、「わたしの名により」だから、神様の名を使って誓うのと、他のものに誓うのとを分けてしまおう!というアイデアでした。神様以外のもの、すなわちここに出てくるような、「天」や「地」、「エルサレム」をさして誓うときは、別に破っても構わない。「わたしは天に誓って1千万円献金します!」「わたしは地に誓って40日間断食します!」「わたしはエルサレムに誓って、エルサレム中の貧しい人に施します!」 大きなことを言って平気で破る。それが日常でした。

イエス様はその事を挙げて、34節、「いっさい誓ってはならない」と言われたわけです。自分の都合のよい解釈をして、ここは嘘をついても構わない、約束を破らなくても構わない。それで平気で私は信仰者だと言ってしまう人々に対して、イエス様は一刀両断されているのです。ですから、ここでの問題というのは、言い換えるならば、「嘘をつくな、約束を守れ」ということなのです。これは保育園や幼稚園の子どもが言われるようなことです。人が人として生きてゆくにあたって、基本的に大切な部分です。でも、そんな基本的なことが神様の前にできているのかどうか、私たちは、あらためて自分自身に問いかける時が必要なのではないでしょうか。

そして、イエス様は37節で「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。」と言われました。今回は「神の基準に生きる」という題でが、神様の基準でいうならば、それは私たちの心さえも問われている。心の中においても、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」で嘘偽りはないか。本当にあなたは心の奥底をのぞかれても、嘘をついていないか?生活の全てを神様に見られても、約束を守っていると言えるのか?もしいつもそう問われているのだとするならば、それはなかなか苦しい生き方ですよね。

しかし、イエス様は、私たちを「お前は嘘つきだ!お前は約束破りだ!」と、断罪するためにこのことを言っているわけではありません。私たちはこのイエス様の前に、「そうです、私は嘘つきです。約束しても果たせないような者です」。そうやって、自分自身の罪深さを認める。その点において、「しかり」を「しかり」としてイエス様の前に真実に告白するときに、あのイエス様の十字架が私たちに迫ってくるのです。十字架は、まさにイエス様が私たちのために掲げて下さった、イエス様の誓いと言うことができるでしょう。確かにあなたは、今自分の罪を認めている。でも、私はそのあなたのためにこうして十字架にかかったぞ、あなたの罪はこの十字架で、私が背負って解決する、ゆるす。そうイエス様が約束して下さっているのです。

そのイエス様の誓いに支えられてこそ、私たちは自分の罪の解決をいただくことができますし、嘘と不真実で塗り固められた生き方から解放されてゆくことができることを、覚えさせていただきましょう。

 

結び:

世に目を上げると、さまざまな生き方が選択肢としてあります。ですから私たちは、神様の前に生きるのにも、自分に都合のよい解釈で選び取っていこうとするかもしれません。しかし、神様の基準に従って生きるときに、そこにこそ豊かな恵みと祝福が広がっていることを信じて、歩ませていただきましょう。