2019年2月17日のメッセージ(音声視聴できます)

ペテロの第一の手紙第1章3節~9節

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

 

「主イエスと共に生きる喜び」

 

私が聖書学院を卒業して最初に任命を受けましたのは愛知県の岡崎市でした。そこで私は、本当に悲しい別れを経験いたしました。他教団の牧師夫妻のご長男が昇天されたのです。まだ30歳を過ぎたばかりでした。あまりにも突然のことで、誰もがその現実を受け止められないでいました。けれども葬儀の際、誰もが下を向いて涙が止まらない中で、司式をした牧師の一言によって、その場が一変しました。

「みなさん、N兄にもう一度会いたいと思っている人は、必ず会えますよ。だってN兄は天国にいるのですから。」

下を向いておられた方々の顔が、パッと上がった瞬間でした。

私たちは地上の生涯を送る中で、どうしてこんなことがと思う厳しい試練に遭遇することがあります。けれども、神さまは私たちの生涯を試練のままで終わらせるお方ではないことを本日の聖書箇所は示しています。

 

「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、」とあります。この手紙は、迫害によって国外に散らされていた人々に書かれているのです。

迫害の中にあって苦しんでいる人々にペテロは、「あなたがたは大いに喜んでいる。」(6節)と手紙に記しています。

たしかに、彼らは迫害の中にあって苦しんでいましたが、なぜ喜べるのか、「そのことを思って」(6節)とペテロは3節から5節にその理由を記しています。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」

あなたがたは、永遠のいのちという、生きている希望を持つようにされ、朽ちることも汚れることもない資産を受け継ぐようにされている。そればかりではなく、今も神の御力によって守られている。だから、あなたがたは大いに喜ぶことができるとペテロは言うのです。

そして、喜びと共になぜ試練があるかをペテロは語ります。

「こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」(7節)

金は金属の中で固いだけでなく、高価で、貴重なものでした。そして、その純度を高めるために火が用いられました。火で精錬し、不純物を取り除いてもっと価値のある物にしたのです。しかし、どんなに精錬されても金は朽ちてしまう時がくるのに対して、信仰が試されることは金より尊いと言うのです。

「信仰が試される」とはいったい何を指しているのでしょうか。

「信仰がためされる」ことと、金の精錬とが比べられています。

信仰が試されるというのは手紙を受け取った人々と神さまとの関係を言っているのではないでしょうか。迫害という信仰が試されることを通し、何に信頼して生きているのかが明らかにされるのです。試練を通して神さまに対する信仰は、増々、はっきりと堅く強いものになっていくのです。だから「イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」とペテロは手紙を通して励ましたのです。

 

ペテロはどうしてこのように、迫害にあっている人たちに手紙を書き、そして励ますことができたのか、ペテロの生涯を考えてみたいと思います。

彼は大きな失敗をいたします。3度も主イエスを知らないと言ったのです。でも彼が、主イエスの名を知らないという前にイエス・キリストはペテロに大事なことを言いました。

「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカによる福音書第22章31節、32節)

主イエスはペテロの弱さも全てご存知の上で、彼を弟子とされたのです。ですから、「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」と主イエスは十字架にお架かりになる前にペテロに祈られたのです。

ペテロはこの主イエスの言葉と祈りを決して忘れることはできなかったでしょう。いえ、忘れるはずがないのです。

ペテロは自らの失敗を通して、主イエスのみ言葉を思い、ただお一人の救い主に立ち返ることができたと思います。ペテロ自身、復活の証人の一人として(使徒行伝第2章32節)働く中で、留置場に入れられる体験をいたしますが、ペテロをはじめとした使徒たちは「神に従うべきである」(使徒行伝第5章29節)と力強い言葉を宣べます。まさに主イエスの言われた「兄弟たちを力づけて」やることのできる者へと変えられたのです。

こうして、主イエスの救いから誰一人としてもれることがないことを、ペテロ自身が体験していたからこそ、手紙を読む人に対して、励ましを与えることばを書くことができたのではないでしょうか。

たとえ試練にあったとしても、そのことを通しあなたがたの信仰は金よりも素晴らしいとイエスさまに認められるようになるのだとペテロは言ったのです。

 

私たちは試練をどう理解しているでしょうか。

世界中を見渡してみますと、未だに訳されていない言語の翻訳をしている団体があり、身分を伏せて、一般の人と同じように働いて伝道をしている方々がおられます。会社の営業成績のような基準でそれらの方々の働きを評価できるものではありません。様々な制約の中にあっての働きは、まさに試練の連続でしょう。

私たちの身の回りにも様々な戦いがあります。

ある方にとっては、家族の反対を受けて教会に来ておられるかもしれません。ある方にとっては、日曜日に仕事が入っているかもしれません。

私たちの周りには、何らかの試練があるのです。けれども、さまざまな試練の中で、「信仰の試練は金よりも尊い」とペテロが言ったように、何が私たちの周りにおきたとしても、信仰の試練の中で、私たち一人ひとりを救ってくださった主イエスの十字架を改めて思う時とさせていただきたいと思います。

主イエスを救い主として受け入れた私たちはこの地上の生涯で、信仰のゆえに、どんなに苦しいことがあったとしても喜んでいることができるのです。

そして、もう一度ペテロはこの手紙を受けとった人々が喜んでいる姿を語ります。

8節、9節「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」

ペテロは、イエス・キリストの弟子として行動していました。その一方、この手紙をペテロから受け取っているキリスト者たちはイエス・キリストの姿など見たこともない人たちばかりです。信じる、という時に私たちは何を考えるでしょうか。私たちは見て信じるとか、さわって信じるとか、聞いて信じるというように、私たちが五感を働かせて、その証拠によって信じるというのではないでしょうか。十分な証拠がそろったならば、信じられると思えるのです。つまり、証拠や知識がそろわなければ信じられないのです。

ところが、実際にその姿を見ることもできず、その御声を直接聞くこともできなかった人たちが、イエス・キリストを確かに愛し、イエス・キリストを信じているのです。

その理由は、たましいの救いを得ているからだ(9節)とペテロは言います。たましいの救いを得ているとは、本当に自分のものにしているということではないでしょうか。言葉に尽くせないというのは語り出すことのできない、ということです。どのように言っても自分の言葉でもって説明はできないということです。言葉に言い尽くすことの出来ない素晴しい喜び、神さまが与えてくださっている喜びであります。

この手紙を受け取った人々は激しい迫害によって散らされ、寄留していた人たちですが、それでも彼らは信仰に堅く立ちました。迫害によって信仰を奪うことはできませんでした。彼らから救いの喜びを奪うことはできなかったのです。キリストの命にあずかって新しく生きるときに与えられる喜びに生きていたのです。私たちもまた、この喜びの中に生きています。

ですから私たちはこの喜びが、何か良いことがあったからうれしいとか、幸せだというのではないことをしっかり心にとめたいと思います。そのような感情的なものではないのです。主イエスによる救いの喜びは現実におきている状況に動かされない喜びです。決して奪われることがない、変わらない喜びです。

 

結び:

ある姉妹が利き腕を骨折されました。この方は書道の師範をされている方であり、趣味は絵を描くことでした。ですから、骨折をされたことを聞いた時、私はどんなに辛いだろうと思いましたし、お会いした時にはどんな言葉をかけようかと大いに悩みました。

日曜日の礼拝にこの姉妹が来られた時のことです。「神さまが私の祈りにこたえてくださいました。」と、とてもうれしそうな顔をされて話しかけて来られました。

まだ痛むその腕の痛みなど全く感じられない、笑顔です。その姉妹は続けてこう話されました。「もう私はしばらく運転できないと言ったら、主人が運転をしてくれると約束してくれました。今まで教会に来たことのない主人をこの礼拝堂に連れて来られるようになりました。ずいぶんと私は主人のために祈ったけれど、神さまって本当に不思議なことをなさるわね。」

そして数週間後、実際にこの姉妹はご主人が車を運転され教会に来られましたし、ご主人は礼拝に出席されるようになりました。この姉妹は、神さまの守りを信じ、この世で様々な試練に出会い、時には苦しみ、悩むことがあっても、神さまから目を離さないでいることをしっかり握っておられたのです。

私たちは自分が思い描いている計画とはまったく違う方向に事態が進んでしまうことがあります。

けれども、「あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変る。」とある通りに、試練を通し、キリストの愛から離れない者へと成長させていただけるのです。

そして私たちは、「言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている」とペテロが記したように、主イエスによって救われた喜びの中に生き、その喜びを伝えていくことができる者とさせていただけるのです。

新しい一週間も、主イエスと共に生きるこの喜びのすばらしさの中に生き、伝えさせていただきましょう。