2019年2月10日のメッセージ

マタイによる福音書第5章21節~26節

昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

 

「早く仲直りを」

 

 今日もこうして御言葉を分かち合うことができますことを、心から感謝しています。1月には、家内がみのお泉教会で礼拝のご奉仕をさせていただきました。皆さんにあたたかく迎えていただいて、心から感謝しております。実は以前もそうだったんですが、家内がみのおに行きますと、何人かの方が「先生がいつもより寂しそうだった~」みたいなことを言われるんですね。私は全然自覚がありませんので、「そうですか~?」と言ってとぼけているんですが、まぁ確かに、自分にとって、「この人がいないと!」ということって、あるかもしれませんね。

 皆さんもそれぞれに、「あの人がいないと…」と思い描く人がいるかもしれませんが、私は思うんです。神さまにとっては、あなたこそがそういう存在なのです。その意味では、今日皆さんがここにおられることを、神さまは心から喜んでおられると思うのです。喜びをもって迎えて下さり、喜びをもって語りかけて下さる。今日も、その神さまの御言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 さて、今日の礼拝も、これまでに引き続き、イエスさまの語られた「山上の説教」から学びます。第5章21節からのところを見てゆきますと、二重のカギ括弧で囲まれた言葉がいくつか出てきていますが、これは旧約聖書の律法です。当時のユダヤ人たちにとっては、よく知っている、そして当然守るべき大切な教えでした。しかしイエスさまは、そのひとつひとつに対し、「(これこれこう)言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし…」と、この律法を新しく捉え直して、丁寧に解説されているんですね。前回のところでは、17節で、イエスさまは律法を「廃するためではなく、成就するためにきたのである」と言われましたが、そのことについて、具体的に述べています。

 そしてその最初に取り上げた律法は、『殺すな』ということです。これは律法の中心となる、十戒の6番目の戒めですけれども、「殺してはならない」というのは、誰が聞いても「そりゃそうだろう」と思うことですよね。当たり前すぎて、さらっと読み飛ばしてしまいそうですが、イエスさまはこの命令を再解釈し、私たちがどのように受けとめて、具体的にどう歩んでいったらよいかを語られました。ここから、2つの点で学びます。

 

1. 殺人の源

 まず最初に、「殺人の源」ということでお話ししたいと思います。こういうタイトルを付けるだけで、何だかどきっとしますね…。今お話ししましたように、「殺してはならない」というのは、基本的に誰もが納得する戒めですけれども、まず、もともとの旧約聖書の律法においてこの「殺してはならない」という言葉にどういうニュアンスがあったのかを見てみたいと思います。

 この新約聖書はギリシャ語で書かれていましたが、当時の人々が律法として聞いたのは、旧約聖書が書かれたヘブル語で聞いたわけです。そのヘブル語で、この戒めに使われている「殺す」という言葉は、「ラーツァハ」という言葉でして、文法的には“否定+未完了形”ということだそうです。それも含めて翻訳しますと、「殺すのはあり得ない」「殺すはずがない」というような意味になるのだそうです。ですからこの「殺してはならない」という戒めは、人が神さまの前にひとつの社会を作ってゆくにあたり、必要最低限守らなければならない戒めであり、本来ならば書かなくてもわかるはずの、選ぶはずのない行動である。これをするのはあり得ない、ということだったわけです。

 まぁテストでいいましたら、赤点ギリギリといったところでしょうか。40点未満が赤点とするなら、最低ギリギリの40点。「殺してはならない」が守れたところで、「だからなんやねん!」ですよ。「そんなことを胸をはって言うな!そんなん当たり前や!」と言われるようなことなんです。文法からそんなことまでわかるんですから、面白いですよね。でももっと面白いのは、当時のパリサイ人や律法学者は、「私は『殺してはならない』を忠実に守っている!」と、胸をはって言っちゃってたんですね。この「殺してはならない」という戒めを、ただ文字どおりに、具体的に人を殺してしまった場合だけに当てはめていたんです。実際に人を殺した者だけが、神さまの前にその罪を問われて裁判を受ける。自分たちはそうじゃないから大丈夫、ちゃんと天国に行ける。そう固く信じていたんです。

 でもイエスさまの捉え方は違いました。22節をお読みします。「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」。イエスさまは、実際に人を殺さなくても、心の中で相手に対して怒りや憎しみを覚える者は、人を殺したのと同じような者として、神さまの前にさばかれるのだと語っているんですね。これはまさに、40点の欠点ギリギリではなく、80点や90点、100点を目指す生き方だと思います。私は60点で万々歳な人なので、そこまで求められると「ちょっとキッツいなぁ…」と、つい考えてしまうんですが、皆さんはいかがでしょうか。

 しかしそれは、私たちが自分の罪の現実をわかっていない証拠だと思うのです。この22節にある怒りというのは、「根に持つ怒り、忘れようとしない怒り、和解しようとしない怒り、復讐しようとする怒り」を意味しています。ですから感情的に少しでもイラッとしちゃいけない、ということではないようです。ちょっとホッとしますね。でも、注目すべきはその後です。「怒る」という、心の内で起こったことは、「愚か者と言う」という風にして、表に現れてくるんですね。そして次には、「ばか者と言う」とあります。「愚か者と」と「ばか者」、日本語ではあまり違わないように思えますが、「ばか者」と訳されている言葉はより深刻です。この言葉は旧約聖書での言葉づかいからすると、ならず者、さらには神さまに捨てられた者、もはや神さまを信じていない者という意味なんだそうです。

 そうやってみてみますと、ここで並べられている三つのことは、怒りや憎しみが次第に深く強くなっていっているんですね。そしてそれに応じて、裁判から議会、そして地獄の火と、そのさばきもまた深くなってゆくのです。殺人というと他人事のように聞こえますが、最初は心の中にあったものが外に出て、それがひどくなり、挙げ句の果てには人を殺めるに至ってしまう。その意味では、私たちの心の中に、人殺しの種、その源があるのです。たまたま今まで私たちは、それが大きくふくらんで現れるに至らなかっただけですが、あのテレビで見るような人を殺める者の姿は、決して他人事ではない。私たちも一歩間違えばそうなってしまう可能性を秘めている。それが、私たちのかかえている罪の現実、罪の恐ろしさなのです。だからこそ私たちは、人を殺していないから大丈夫というような40点の生き方ではなく、自分の心を問い、自分の罪の恐ろしさをちゃんと認めてゆくことが必要なのです。

 

2. 「しない」から「する」へ

 続けて、「『しない』から『する』へ」ということで考えてみたいと思います。21~22節で私たちの罪の現実を明らかにされたイエスさまは、23節で、「だから」と語ります。私たちにそういう罪の現実がある、「だから」こうしなさいと述べていくわけですが、そこで語られていることは、言葉を拾いますと、24節では「和解」であり、25節では「仲直り」なんですね。

 「祭壇に供え物をささげようとする場合」とりますが、これは、礼拝に行く時に、と置き換えることができます。礼拝に行く時に誰かに恨まれていることを思い出したなら、礼拝の前に、まずその相手と和解し、それから礼拝しなさいと言うのです。また、自分を「訴える者」、すなわち自分に反感を抱いている人と一緒に道を行くときには、まず仲直りしなさい、と言うんです。でもね、よく考えてみて下さい。うらみを抱いているのは相手の方です。また、反感を抱いているのもまた、相手の方なんです。なのに、なんでこっちから和解しなきゃいけないの?仲直りしなきゃいけないの?そう思いませんか?

 そもそもここは、「殺すな」という命令から始まっていますが、これはまさに「○○するな」という何かを禁止する「戒め」です。しかしイエスさまの教えというのは、「○○するな」という消極的な戒めではなく、もっと積極的に「和解“せよ”」という命令なのです。イエスさまが律法を成就すると言われたのは、意味を心の中の怒りにまで広げて、より厳しい、より範囲が広がった禁止命令を下す、というやり方で律法を成就しようとしておられるのではないのです。イエスさまは、「~してはならない」という禁止の命令を、「~せよ」という積極的な命令へと転換することによって、律法を成就しようとされているんですね。「殺すな」という禁止を、「和解せよ」「仲直りせよ」という命令に転換させておられるのです。その転換を導きだすために、怒りの思いも人を殺すことと同じだ、ということが語られているのです。

 でもそうやって、相手に非があるように思える者に対して、私たちは和解や仲直りを選んでゆくことができるのでしょうか。実はこの「和解」という言葉なんですが、この言葉はもともと、「交換をする」「他のものと変える」という意味があるんだそうです。和解とは、今までの自分と変わった者になるということです。敵意が友情に変わる、ということです。ますます、「そんなん無理やで~」と思ってしまいます。

 しかし、クリスチャンはそれができるのです。なぜなら、これをお語りになったイエスさまご自身が、その事を実践して下さっているからです。イエスさまは、私たちの罪を御自分の身に引き受け、十字架にかかって死んで下さいました。人間の反感、敵意、罪によって、イエスさまは殺されたのです。でもイエスさまは、「この恨みはらさずおくべきか!!」と言いながら、死んでいったのではありません。憎しみを受け、罪を引き受けながら、愛でこたえて下さった。そのことによって私たちに神さまとの和解の道が開かれたのです。それが、主イエス・キリストによる救いなのです。まずご自身が命をかけて和解の道を示して下さった。私たちは、その恵みに、救いにあずかっている者です。

 イエスさまが和解を命じられたこと、これは、そうしないと救われないという掟や戒めではなくて、むしろ私たちはイエスさまによって、そのように生きることができる者とされている、そういう自由を与えられている、ということです。「兄弟と和解しなさい」という命令を、ただ命令として与えるだけではなくて、まずご自分が実践されたのです。御自分の命を捨てて、私たちと神さまの和解を生み出して下さったのです。私たちはこの主イエスの十字架の恵みの出来事を信じ、その恵みの中で生かされることによって、自分から積極的に、兄弟と和解していく者となることができるのです。そこに、律法学者やパリサイ派の人々にまさる、私たちの義が実現していくのです。「殺すな」という律法の成就は、和解に生きることです。私たちはそのことを、誰よりも主イエス・キリストが与えて下さった和解の恵みの中に見出すことができるのです。

 

結び:

 かなり昔の曲になりますけれども、「歌声と変える」という賛美がありましたね。ご存じの方もおられると思いますが、こんな曲です。1節と3節をお聞き下さい。

 

 『歌声と変える』

 

わたしの胸の痛みは 誰にもわかりはしないと

背を向けるまえに 主の声を聞いてごらん

 (折り返し)

 いま 苦しみさえも いま つぶやきさえも

 イエスはうでに抱きしめて 歌声とかえる

 

主の手にひかれてゆこう 私のために命さえ

投げ出したかたの 大きな愛をうたいながら

 (折り返し)

 いま 苦しみさえも いま つぶやきさえも

 イエスはうでに抱きしめて 歌声とかえる

 

 苦しみもありますよね。つぶやきもあります。そして、憎しみもあるでしょう。また恨みもあるかもしれない。そして、人から悪意を向けられたことによって生じる、何とも言えない思い。それでも赦さなきゃいけないのか、和解しなきゃいけないのかということで感じさせられるいろんな葛藤。でも、私たちはその思いを、丸ごとイエスさまのところに持って行って、イエスさまに変えていただけるという道を持つことができているんです。それは一筋縄でできることではないかもしれません。でもイエスさまがそれをして下さって、私たちはそこに生きることができる。これは、イエスさまを信じている、クリスチャンだからできることなんです。これはクリスチャンに与えられた特権であり、また、使命なのではないでしょうか。その事を覚えさせていただき、今日もここから遣わされてまいりましょう。ひとことお祈りをささげて終わります。

 

<祈祷>

 天の父なる神さま、こうして今日も御前に集まって、あなたの御言葉に聞くことができ、心から感謝致します。「殺すな」という命令だけですと、私たちにとってはあまり関係のないような命令かもしれません。でも、その源になるような思いが、私たちの内にはあるし、その小さな源、小さな思いの種は、私たちの内にとどめておくことができず、大きく大きくふくらんで溢れてきてしまう。そんな私たちの罪の現実を思います。でもそういう私たちだからこそ、イエスさまの十字架が必要ですし、イエスさまはこの私のために十字架にかかって下さいました。十字架の上で、多くの人の悪意を受け、罪を背負い、神さまとの和解の道を備えて下さいました。

 そうやってイエスさまが示して下さった和解の道、仲直りの道を、私たちもまた、主イエスさまにつき従って歩ませていただきたいと思います。どうぞこの恵みに生きる者とならせていただくことができますように。イエスさまに変えられて歩む事ができますように、お願い致します。

 今日ここに集うことのできなかったお一人一人にも、神さまの豊かな祝福とお守りがありますように。今週一週間も、私たちがあらゆる敵意から解放されて、和解の道に生きることができるように導いて下さい。このひとときを心から感謝し、愛する主イエスさまのお名前によってお祈りをお献げ致します。アーメン。