2019年1月27日のメッセージ

使徒行伝第19章1節~10節

アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。その人たちはみんなで十二人ほどであった。

それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。

 

「覚悟をもって生きる」

 

すっかり寒くなりました。雪や台風などの時、電車が不通になってしまうことがあります。ですから、土曜日は、「明日の天候が守られますように」と祈りながら、日曜の朝も、「大丈夫かな?神様、お守りください。」と祈りながら出かけます。皆様に祈られ、守られて、共に礼拝を捧げることができることを感謝いたします。

 

1. エペソへ

復活のキリストに出会ってから、パウロの人生は一変し、キリストを伝えるためにその生涯を捧げました。新約聖書の中には、パウロが書いた手紙が13通あります。そのうち9通は、彼が伝道によって産み出した教会に宛てたものです。コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケ、そしてローマ。実際にはもっとあったのですが、聖書の中に採り入れられたのはこの9通です。パウロはこの時代の主要都市で伝道し、そこに教会を産み出していきました。日本でいえば、東京、大阪、神戸、広島、長崎、鹿児島といったところでしょうか。

今回の聖書の箇所は、エペソでの伝道です。この町もパウロが行きたかった場所です。

エペソは、アジア最大の町で、政治的に重要な位置を占め、陸、海に渡る交通と、商業の要地としても知られていました。文化的にも歴史が古く、諸宗教の活動も盛んでした。古代世界の七不思議の一つと言われていた、有名なアルテミスの神殿もありました。

このエペソは、パウロにとって、アジアにおける伝道の戦略上からも最も重要視されるべき都市でした。第2回の伝道旅行で、彼はエペソを目指したかったに違いありません。

しかし、聖霊にとどめられ、トロアスへ。そこで幻を見てヨーロッパへと向かいました。そして、その伝道旅行の帰路にてエペソに立ち寄りますが、長くはとどまりませんでした。

第3回伝道旅行に出発したパウロは、今度こそという思いでエペソに向かったことでしょう。各地を巡回しながらエペソに着き、ここで2年間腰を据えて伝道しました。

 

2. エペソでの伝道

エペソに着いたパウロは、まず12人の弟子に出会います。彼らには信仰上の欠陥がありました。彼らは、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。そこでパウロは、ヨハネは、来るべきお方としてイエスを指差したのであって、そのお方がもう来られたのこと、そして十字架と復活によって救いを完成されたことを伝えました。パウロによって、真の福音の説き明かしを聞いた12人の弟子たちは、主イエスを信じ、「主イエスの御名によって」バプテスマを受けました。

さらに、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました(6節)。この出来事によって聖霊のバプテスマを受けたことが確認されたのです。

パウロは、弟子たちの信仰を確立した後、ユダヤ人の会堂で伝道を開始しました。しかし、再びユダヤ人の反対に遭い、ツラノの講堂に移り、毎日朝10時から午後4時まで伝道しました。

パウロがアジアのすべての町々を巡って伝道することは不可能でした。しかし、エペソには、アジア州全域から通商のために人がやってきました。また、アルテミス神殿参拝のためにも多くの人がやってきましたから、それらの人たちに伝道することができたのです。正に、ツラノの講堂は、全アジアに福音を伝えるための伝道センターとなっていました。

人々は、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤ、コロサイ、ヒエラポリスなどから来てはパウロから福音を聞きました。

こうして、ヨハネの黙示録に記されている7つの教会を含むアジアの諸教会が設立される基礎が作られたのです。

さらに神は、パウロによって驚くべき奇跡を行います。語られた御言葉が具体的にも力あるものであることが、病気の癒しや悪霊の追放という形で確証されていきました。

しかし、どこへ行っても、問題や困難、戦いはあります。宗教の業が進められる時、騒動も起こりました。

けれども、パウロの心の中には一つの決意がありました。それが21節の言葉です。

「これらの事があった後、パウロは御霊に感じて、マケドニヤ、アカヤをとおって、エルサレムへ行く決心をした。そして言った、『わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない』。」

ここで初めてパウロのローマ行きの希望が発表されたのです。ローマは、パウロの伝道の最終目標であり、世界に福音が進展していく拠点でした。

しかし、彼がエルサレムに行くこと、そして正に当時世界の果てと思われたローマへも行くというのは、相当の覚悟が必要でした。なぜなら、パウロの活動を見聞きしていた反対者たちが、彼を捕えようと手ぐすね引いて待ち構えていることを分かっていたからです。

これ以降、使徒行伝の記事もローマを指して進んでいきます。

 

3. パウロの覚悟(パウロの宣教を支えたもの)

こうして、次々と宣教の働きを進めて行ったパウロという人物を想像すると、とてもエネルギッシュで大胆で、自信に満ち、雄弁な人、体もがっしりしていて頼りがいのある風貌をしていて…と想像してしまいます。

しかし、実際はそうではなかったようです。コリント人への第2の手紙第10章9節~10節にこう書いてあります。

「ただ、わたしは、手紙であなたがたをおどしているのだと、思われたくはない。人は言う、『彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない』。」

新改訳では、「実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりはなっていない」とあります。

確かに文章力は抜群だったと思いますが、決して雄弁な人ではなかった、話はつまらないというのです。話がつまらないなんて、牧師、伝道者としては致命的ですよね。いろいろな集会に行って、つまらない話を聞かされたら、二度とこの先生の集会には行きたくないと思うでしょう。講師を外からお招きするときも、この先生ならと思ってお招きしたのに、つまらない話を聞かされたら、二度と呼びたくないと思いますよね。

実際、ユテコという青年が窓のところに腰かけて、パウロの話を聞いていて、居眠りしてしまったという話が使徒行伝第20章に書かれています。(ユテコは3階から下に落ちて死んでしまったのですが、奇跡的に生き返りました。)「パウロって、話はつまらないって言われたんだ。」そんなことを聞くと、私としてはちょっとホッとする気にもなります。人を引き付け、面白い話をするのは難しいですからね。

パウロには持病もありました。持病については諸説がありますが、恐らくてんかんだったのではないかと言われています。そのために、「このとげをとり去って下さるように」三度も主に祈りました。三度というのは何度も何度もという意味です。でも、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント人への第2の手紙第12章9節)と神様から言われたのです。だから、外見は弱々しかった。そのような人がどうしてあそこまでキリストを伝えるために頑張れたのでしょうか。パウロの宣教を支えたもの、その原動力は一体何だったのでしょうか。

私は使徒行伝を学びながら、パウロの生涯において、その脳裏から離れることがなかった1つの出来事があったと思うのです。それはステパノの殉教の姿を目の当たりにしたことではなかったか、そう思わせられてきました。

サウロと呼ばれて、クリスチャンを迫害していた側にいた彼は、ステパノの最期の瞬間を目撃したあの日のことを、生涯忘れることができなかったに違いありません。聖霊に満たされていたステパノが、天を見つめ、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」(使徒行伝第7章56節)と言うと、人々は大声で叫び、ステパノに殺到し、街の外に追い出して石で打ち殺したのです。ステパノは死の間際、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と祈り、ひざまずいて、大声で「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と叫んで眠りについたのです(使徒行伝第7章59節~60節)。青年サウロの足元には、石を投げた人たちの上着が置かれていました。

外見は弱々しく、話はつまらないと言われたパウロを、このように強くしてくださったお方は聖霊です。神様の方法は、私たちの生活の中で、人を通して働くというものです。具体的な歩みは、私たちが体験することを通して起こされる思い、願いから始まります。神様は私たちの内に語りかけ、願いを起こさせ、思いを抱かせ、それを実現に移すお方です。

パウロは決して強い人ではなかった。外見は弱々しく、持病を抱えながら、人の思いと戦った人ではなかったか。アテネからコリントへ向かった時も、彼は、「恐れ、かつひどく不安であった」ことが記されています。そして、すがるように祈りながら、弱さの中で神の強さを体験した人ではなかったか、そしてその生涯を貫いたのは、あのステパノのように生命をかけて従っていきたいという願いと、従っていこう、宣教のために生きようという覚悟だったのではないでしょうか。

だから、パウロはこう言えたのです。

「聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。」(使徒行伝第20章23節~24節)

 

結び:

夫が天に召されて半年が過ぎました。

その間、私は使徒行伝を学び、メッセージをさせていただいてきました。そして、ステパノの殉教について学んでいた時、ふと、「なぜ、神様はステパノを助けなかったのだろう。奇跡を起こして助けることだってできたはずなのに」と思ったのです。そして、御言葉を学んでいくうちに、ステパノの死の様子はサウロの脳裏に焼き付けられ、その生涯を貫いたであろうことを教えられ、一つのことを願わされました。

主人の死を通して誰かの人生が変えられてほしい。

そういう思いが起こされました。その願いのように、教会が牧師主導から信徒主体に変わりつつあるように思えています。三田では、私が留守の時は、二人の信徒が講壇を守り、奨励をしてくださいます。昨晩もA兄が奨励の原稿を持ってきて、その概要を語り、共に祈りました。彼は、聖書のメッセージを通して、神様の広大な救いの御計画の中に、自分のような者が入れられていると思うと心がわくわくするというのです。

また、14日にもたれた近畿教区の新年聖会で平野信二先生が午後の集会の最後に証しをしてくださいました。昨年はこの近畿教区で二人の岡田牧師が天に召されました。7月に主人、そして12月に岡田信常先生です。

岡田信常先生は、大阪教会で牧会され、超教派の働きでも巡回伝道者として働かれた方ですが、病を得て2年間闘病の後、天に召されました。奥様が献身的に介護され、多分、ご本人も周りの方々もある意味で覚悟された最期だったと思います。

主人の場合は、突然のことでしたので、教団の先生方も大変ショックを受けられました。平野先生もその一人でした。一体何があったのだろう。多くの人がそう思っているに違いないと思われ、関東で開かれた夏季聖会で、息子であり、また牧師として司式を行った宣道の葬儀説教のコピーを希望者に配ってくださいました。

それを読まれた一人の人が、自分は信徒として生きようと思っていたが、告別式の式辞の中の主人の献身の証しを読み、「自分のような者でも、牧師、伝道者にならなければならない」とのせまりを受け、牧師になる決心をしたというのです。

その方は聖書学院の信徒コースで学ばれている方でした。ユースジャムなどに参加し、周りの人たちが献身する中で、自分は信徒としてこうした献身者を支えていこうと示されて信徒コースに入学されました。しかし、主人の献身の証しを読み、伝道者、牧師への道を示され、昨年の秋、試験を受けてこの四月から本科生になるというのです。

私はそれを知って本当にうれしい思いになりました。主人の死が無駄な死であってほしくない。主人の死を通して誰かの人生が変わってほしい。そんな祈りの答えを見せていただいた思いでした。

私たちはお互い、いろいろな問題や課題を抱えて生きています。問題のない人はいません。不安や迷いが起こることもあるでしょう。でも、大切なのは、あのパウロのように覚悟をもって生きることではないでしょうか。

神様から与えられた任務を果たしさえしたら、この命は自分にとって少しも惜しいとは思わない。

神から与えられたあなたの任務は何でしょうか。自らの任務を知り、覚悟をもって生きる、そんな生き方をさせていただけたら幸いだと思うのです。