2018年12月30日のメッセージ

詩篇103篇 ダビデの歌

わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。

わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、

あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、

あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

主はすべてしえたげられる者のために正義と公正とを行われる。

主はおのれの道をモーセに知らせ、おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。

主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。

主は常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。

主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、われらの不義にしたがって報いられない。

天が地よりも高いように、主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、

東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。

父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。

主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。

人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。

風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。

しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、

その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。

主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。

主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ。

そのすべての万軍よ、そのみこころを行うしもべたちよ、主をほめよ。

主が造られたすべての物よ、そのまつりごとの下にあるすべての所で、主をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。

 

「主の良くしてくださったこと」

 

12月23日の神戸新聞のコラムに、災害が続いた2018年を振り返り、こんなちょっといい話が紹介されていました。大阪北部地震が発生した時、芦屋駅で止まった阪神電車内での出来事です。

緊急地震速報が鳴り、動かない電車に、英会話に慣れている一人の女性が乗り合わせていました。不安な様子の外国人を見たその女性は、英語で状況を説明しながら、ふと思いました。

電車の中にはもっと他にも日本語の分からない外国人がいるかもしれない。乗務員の了解を取り、車内放送用のマイクで英語の緊急アナウンスを始めたというのです。そして、運休が決まると、降車するようにと英語で説明しました。車内は混乱もなく、日本人と共に多くの外国人がホームへ降りたそうです。

この女性は大阪の放送局に勤めている方でした。その女性の機転、また突然の申し出を受け入れた乗務員にも拍手。規則違反ではないかと女性は不安だったようですが、「大変助かった」と受けとめた電鉄の姿勢にも拍手。災害時、鉄道などを利用する外国人に、どう対応するか?社会が問われる年でもあったと記されていました。

皆様お一人お一人にとって、この1年はどんな1年だったことでしょうか。

私にとっては、この1年、よくぞここまで守られてきたと思える1年でした。皆様のお祈りとお支えによって、今があることを覚え、心から感謝しております。

本当にありがとうございました。

今朝、1年を振り返り、主の恵みを数え、新しい年を迎えたいと思います。

 

さて、今回の詩篇103篇は、多くの人びとに愛されている有名な詩篇です。もともとダビデがこの歌の原型を作り、それが歌い継がれる中でより整えられ、今の形になったようです。

この103篇は3つの部分に分けられます。

初めの部分は、詩人が自分の経験、個人的に思い当たることとして神様をたたえている賛美です。

2番目は、自分の生まれた国家、そしてその国に育っている民はこういう風に神によって支えられてきたということをいっています。そこからずっとその思想が広がっていき、「自分たちの国、イスラエルの人々だけではない。神はありとあらゆる人を心に留めておられる。異邦の民であっても、神様の慈しみと憐みからもれることはないのだ。さらには、全被造物が神様の慈しみと憐みをいただいているのだ」といっています。

そして、最後には、「主の使たちよ、そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、主をほめまつれ」と天使たちのことをいっています。私たちの目には見えませんが、神を賛美するためにつくられている千々万々の御使いたちも神様の憐れみと慈しみに対して、神様に感謝を捧げよと唄います。

このように、個人から民族に広がり、民族から人類に広がり、人類から全宇宙に広がっていく歌です。

 

1. すべてのめぐみを心にとめよ

今回は、2節の「そのすべてのめぐみを心にとめよ。」の御言葉を中心にお話したいと思います。

新改訳聖書では、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」、リビングバイブルでは、「今までにいただいた祝福を決して忘れません」、そして、英語では、”forget not all his benefits!”(benefit: 利益、親切な行為、恩恵)です。では、すべての恵み、主の良くしてくださったこと、今までいただいた祝福、利益とは何でしょうか。

第一に、神の許しです。

3節に、「主はあなたのすべての不義をゆるし」とあります。これが、主のしてくださった最大の良きこと、祝福、恵みです。私たち人間が神様からどんなに大きな恵みをいただいたのか。

と言っても、大きな屋敷が建ったとか、位が上がったとか、学歴を修めることができたとかとは違います。全人類にとって、一番心の最も深い所にある要求、一番深い所で人類が呻くように求めているものは、罪を許されて、神様の前に申し開きのできる、青天白日の身になることであり、これが恵みの基本、主が良くしてくださった最大のことです。

すべての人が罪を犯しています。しかし、人の心の一番胸の奥にあるものは、私を創り、その私をいつも手の中に支えてくださる神様との交わりです。神様にものを申し上げ(祈り)、またその神様に声をかけていただくことが、一番大きな恵みです。そのためには、不義、罪が許されることが前提です。

 

2. 乳離れの経験(試練)

ここで使われている「めぐみ」という言葉は、本来ユダヤ民族の中にあった言葉ではなかったようです。古いバビロニア語がユダヤに入ってきたのであろうといわれています。

もともとは、「母親が子供を乳離れさせる」という意味の言葉です。「めぐみ」という言葉は旧約聖書にたくさん出てきますが、ここでは「ゲムール」という言葉が使われています。

「そのすべてのめぐみを心にとめよ」とは、「つらいことだけれども、そこを通すよ」ということです。試練のようなことが起きてくることもあるでしょう。けれどもそれも本当は恵みだということです。

神様は、私たちの生涯というスケールから見て、「この人にはこういう教育が必要だ」と思ったら、いつでもこのような乳離れの経験をさせられます。私たちは神様を信じていても、何もつらいことがないわけではありません。痛い目にも遭います。でも、そこを通過した後に、神様は語りかけてくださいます。祈りの中にお応えくださるのです。その祈りの中で、どんなに神様に近づけていただいたかを知るのです。ですから、罪が許されるときも、病が癒されるときも、試練を通るときも、あらゆる場合に神様を求めるとき、私たちが祈り始めると必ず心の内に痛さを感じます。

罪が許されるときには悔い改めが必要です。病の癒しもそうです。本当に自分を神の御手に委ねるか、本当に自分は神の光の中に立っても大丈夫かと痛みを感じます。痛みのない恵みはありません。

へブル人への手紙の記者は、「親にこらしめられない子供があるとしたら、それは私生児だ」といっています。(第12章6節~11節)本当の親は、子供がきちんとその人生を成長していけるようにするものです。これはいくつになってもそうです。神様が私たちを本当の子供として扱ってくださるのであれば、こういうテストのようなところを通るのだと、へブル人への手紙の記者は述べています。

神様は本当に賢いお方です。全知識を持ったお方ですから、あなたの生涯、私の生涯を生れてから、この地上で一度しか生きることのできないものとして知恵深く導き、支えてくださいます。そのことを忘れてはいけません。

 

3. 御子によって

神は、ご自分が選んだ者を永遠に捨てられないお方です。イエス様は、「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだのである。」(ヨハネ第15章16節)と言われました。だから、確実なのです。私が、あなたが、クリスチャンになったのは、あなたが選んだのではなく、神様が選んでくださったのです。

旧約聖書には、ぶどうの木、ぶどうの畑の物語がたくさん出てきます。ところが、「エジプトから携えられてきたぶどうの木はイスラエルという畑に植えられたが、みんな失敗して、本当のぶどうの実を結ばず、野ぶどうのようなすっぱい実を結んでしまい、主人の喜びにはなれない。」というのです。イスラエルの民も同様で、神の戒めに背き、結んだのはすっぱい実でした。

それではどうするのか。神様はイスラエルの人々を品種改良したのかというと、そうではありません。神様ご自身が私たちと同じぶどうの木になり、この地上に来て、甘い実を結ぶ幹になって、すっぱい実ばかりを結んでいた者をその枝に結び付け、良い実を結ぶようにしてくださったのです。品種改良ではなく、新しいぶどうの創造です。

神様は「あわれみにとみ、めぐみ深く、怒ること遅く、いつくしみ豊かな」お方です。

もし、神様が短気だったらどうでしょう。誰一人、御前に立てる人、人生を送れる人などいないでしょう。

さらに、怒るに遅く、いつくしみ豊かな神は、「常にせめることをしない」といいます。日本人は何かあるとすぐ、「神様の罰が当たる」と言いますが、私たちの神は救いの神であり、怒ることがあってもそれを自分で飲み干したお方です。神は、御子イエスを地上に遣わし、その方に怒りを思い切りぶつけられました。父なる神様も、どんなにつらかったことかと思います。また、それを受け取るイエス・キリストもどんなにお辛かったことでしょう。

14節から18節を読みましょう。神様の救いは、永久に子々孫々にまで伝えられ、支えられていきます。

人はどんなに弱い者でしょうか。神は天地を創造し、その創造の冠として人間をつくられました。しかも、「神のかたちに似せて」作られ、「神が息を吹きかけると人は生きるものとなった」のです。(創世記第1章27節、第2章7節)これは、人間をどこまでも知って下さる神様だということです。酔いも悪いも全部知っていてくださる神様です。どんなに私たちがつくろっても、神様の前には知られているのです。神は一切をご存知です。

このお方をおそれかしこんで生きたい。それは、びくびくする恐れではなく、おそれかしこむ、すなわち、神様を神様とすることです。

それは言い換えると、信仰ということです。あるいは、賛美ということでもあります。力いっぱい自分の存在がやぶれるばかりに、喉も割けよとばかりに神を歌い賛美することが、主をおそれるということにあらわされることでしょう。

 

結び:恵みを教え、新たな年に期待しましょう

皆様にとって、この一年はどんな恵みの年だったでしょうか。主が良くしてくださったこと、恵みを数えてみましょう。私にとっては、実にこの一年、特に後半は、神様のあわれみと皆様の祈りによって支えられた年でした。

先ほど、恵みとは乳離れするという意味だと申しました。メッセージの準備をしながら、恵み、主が良くしてくださったことを数えていましたが、この言葉には、乳離れ、試練という意味もあることを知って驚きました。

夫の召天は、実に私と家族、そして教会にとって大きな試練でした。でも、このことも「恵みなんだよ」と教えられ、私自身がこの年になってもまだ、乳離れできていない弱い信仰者なんだなあと思わされました。

夫がいなくなったこと、このことを良きことと受けとめることは難しいことですが、神様はこのことを通して私を訓練してくださっていることを思い、新しい年に向かって、主を期待して前進してまいりましょう。