2018年12月9日のメッセージ

マタイによる福音書第1章18節~24節

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

 

「はじめにあった神の思い」

 

アドベント第2週の礼拝です。

さて、ケセン語聖書をご存知でしょうか。

宮城県にお住まいであった山浦玄嗣(はるつぐ)という医師が、聖書を普通の日本人がその地方の言葉でわかるような訳にしたいと考えました。そして、二十数年かけて独学でギリシャ語を学び、ギリシャ語原典から宮城県気仙沼の方言に翻訳しました。これがケセン語聖書です。

従来の直訳体の日本語では理解が困難だった多くの箇所が、生き生きとした地方の生活の言葉で語られています。聖書の理解に役立ったとして、2004年、著者とその仲間の気仙衆28名がバチカンに招かれ、教皇ヨハネ・パウロ二世に「ケセン語訳新約聖書四福音書」を直接献呈して祝福を受けました。

なかでも注目すべきは、ヨハネによる福音書第1章1節、2節と10節です。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。」

「彼は世にいた。そして世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」

 

ケセン語訳聖書ではどうなるでしょうか。

山浦さんの訳はこうです。

「初めにあったのァ、神様の思いだった。思いが神様の胸にあった。その思いごそァ、神様そのもの。初めの初めに神様の胸の内にあったもの。」

「神様の思いが凝(こご)って人どなり、この人の世に在りやった。人の世ァ神様の思いによってなったのに、この世ァそれを認識(わが)んながった。」

 

初めにあったのは神様の思いだった。

初めの初めに神様の胸の内にあった思いが出来事となった…それがクリスマスの出来事なのです。

神様の思い…はかりしれない神様の思いが凝縮して、自ら人となって地上に来て下さったのに、この世はそれを知らなかった。今も日本中で、世界中でクリスマスが祝われていますが、初めにあった神様の御思いをどれだけの人が知っているでしょうか。

 

1. ヨセフに告げられた神の思い

初めの初めにあった神様の思いが、どのような方法でどんな風に出来事となったのでしょうか。

今回の聖書の箇所18節からイエス・キリストの誕生の次第が記されています。これこそ、神様の思いが出来事となった一大イベントなのです。

それは、ユダヤの国の片田舎ナザレの村に住む一人の処女マリアの上に起こりました。ヨセフと婚約中であったマリアは、聖霊によって子を宿し、身重になったというのです。

当時、ユダヤの国の法律では、婚約には結婚と同様の拘束力がありました。婚約期間に夫婦の関係を持つことはなく、他の異性と肉体的な関係を持つことは姦淫とみなされ、石打の刑になってしまうのです。ヨセフはマリアの妊娠を知り、悩みました。そして、ひそかに離縁しようと心に決めます。それはヨセフが自分を守るためではなく、マリアを守るためでした。ヨセフとしては、自分の子ではない子を宿したマリアを妻に迎えることはできない、でも人は婚約中に自分がマリアに手を出したと思うだろう。それでもいい、自分が責めを負おうと思ったのです。ヨセフはマリアの妊娠について誰にも言えず、どんなに悩んだことでしょうか。

人は悩みの中で神に出会います。まさに神の方からヨセフに夢で語ってくださいました。

主の使いが、「ダビデの子ヨセフは心配しないでマリアを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を生むであろう。その名をイエスと名付けなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救うものとなるからである。」(20節、21節)だから、マリアを離縁してはいけないと御使いはヨセフに語ります。そして、その理由も、

「主が預言者によって言われたことが成就するためなんだ。」つまり、神はご自分の思いを預言者に語り、(その胸の内を明かすように)預言者がその神の思いを民に伝えた、そしてその思いが成就する、つまり、神の思いが出来事となって実現するというのです。

昔、イザヤという預言者を通して、「見よ、おとめがみごもって男の子を生む。その名はインマヌエルととなえられる。」(イザヤ7:14)そう神が語られたではないか、このように告げられたヨセフは、主の使いが命じたとおり、マリアを妻として迎えたのです。やがて、男の子が誕生し、告げられたとおり、その名をイエスと名付けました。

 

2. 神の思い、それはインマヌエル

神はご自分の思いを預言者に託し、その思いが夢の中で天の使いによってヨセフに語られました。その神の思いとはなんでしょうか。それはインマヌエルとよばれることです。

インマヌエル預言といわれる預言は、旧約の時代に生きた預言者イザヤに託された神様の思いです。イザヤは紀元前700年代に活躍した預言者です。彼が活躍したころは、アツスリヤ帝国が急速に勢力を伸ばし、シリヤ・パレスチナの地方に攻め寄せてきました。当時、イスラエルは北と南に分裂しており、南王国ユダでは、自らを守るために、時の王アハズがアツスリヤに援助を求めます。しかし、イザヤは反対し、イスラエルの神に頼ることを勧めましたが、アハズはこれを拒否します。その時に語られたのが、このインマヌエル預言です。

神の与えるしるしとして、処女が身ごもって男の子を生む、その名はインマヌエル、即ち神が共におられるお方として人類にのぞんでくださる、そしてそのお方によって人類の救いが完成することを予言したのです。

初めにあった神の思い、それは神が人と共にいる、一緒にいるということです。この神の思いがイエス・キリストによって成就したのです。

ある一人の青年が洗礼を受ける時、こう言ったそうです。

「私はもう主イエスを求めて出かける必要はなくなりました。なぜって、自分が、今ここで、このままでキリストに救われているということをはっきり認めるからです。自分が出かけて行って、どこかにイエス様を見つけなければいけないというのではない。イエス様も、自分の弱さや様々な困難と闘って、勝利してくださった方です。そのお方が、今、悩みの中にある私のところに自ら来て、私をそのまま救ってくださったのです。もう私は救われるために自分でああしなければ、こうしなければいけない、自分でイエス様のところに辿り着かなければというようなことは一切ないのです。イエス様の方から来て救ってくださったのです。」

神が、イエス・キリストを信じることによって、人間の魂の深い所に届いてくださる。神は私たちと一緒におられる。私たちがどんなに罪を犯しても、私たちと一緒におられるお方になるために、主イエスは神が人としてこの世に生まれ、十字架にまで赴かれたのです。神の思い、それは「神 我らと共にいます」お方となることです。

神様の方から、人間と共にいたいと願ってくださった。そして、人としてこの世に誕生してくださった。神共にいます。インマヌエルの出来事が実現したのがクリスマスなのです。

 

3. 現代に生きるインマヌエルの神

神が私たちと共に生きてくださる、インマヌエルの神は、現代に生きる私たちと共に生きてくださるお方です。一人の方の実例を通して、神が共におられるお方となってくださった出来事をお話したいと思います。

その女性Aさんのお母様は、かつて伝道者として献身された方でした。結核が不治の病と言われていた頃、病院伝道に従事され、患者であった一人の青年を導き、やがてその方と結婚し、二人の娘さんが与えられ、幸せな家庭を築かれていました。しかし、ある日、長女が電車の踏切事故で亡くなられ、そのショックで教会生活から遠のいてしまいました。何年か経ち、先輩の牧師に導かれ、次女であるAさんと教会に出席されるようになりました。やがて、お母様はがんで昇天、お父様も亡くなり、Aさんが一人残されてしまいました。心配してくださった方の紹介でBさんと結婚。Bさんはクリスチャンではありませんでしたが、お二人は家も与えられ、幸せな結婚生活を送っておられました。

Aさんは結婚するときにBさんと約束したことが一つありました。それは、教会で月1回行われる伝道礼拝には、必ず一緒に教会に行くことでした。

以下はご主人であるBさんの御証しです。

「キリスト教徒の出会いは、妻との出会いからでした。なかなか足が教会の方へ向かなかったのですが、妻との約束で伝道礼拝に行く約束をさせられていましたので、重い足を引きずっていきました。2、3回は寝過ごしていけなかったときもありました。

求めはなくても、礼拝中、知らぬ間に御言葉が入っていて、そのうち、知っている聖歌や聖句を聞くと、『これ、知ってる!』と面白くなりました。

でも、この頃は礼拝が終わると、牧師や教会の人につかまらないように急いで家に帰っていました。

結婚して9年後、脳腫瘍が見つかりました。突然、脳腫瘍と言われましたが、手術すればOKと考えていました。手術し、検査の結果、がんで、それも悪性度の強いがんでした。その後、再発して大きくなり、手術も不可能でした。その時、もう神様しか頼る者がないと思い、神様を受け入れました。そしたら、突然、神様を受け入れたんだという喜びで全身がつつまれ、大きな声で町中を走り回り、叫びたくなるほどでした。今までにない喜びでした。母と妹に、『早くクリスチャンになった方がいいよー!』と電話してしまうほどでした。

神様を一番必要としていたのは僕だった。ひねくれた人間だったのに、救いを受け入れると素直に感謝できるようになったのです。」

この御証しが書かれたのは、腫瘍の再発がわかり、受洗を決心した3日後のことだったそうです。奥様のAさんはご主人の決心を聞き、涙を流して喜びました。二人は何とも言えない平安な気持ちを味わい、小さなケーキを買って、霊の誕生日を祝いました。

やがて、Bさんは、新会堂の最初の礼拝式で受洗されました。病状が悪化し、ホスピスへの転院を考えておられた矢先、容体が急変し、天に召されていきました。そのお顔は実に穏やかで、平安そのものでした。

こうして、Aさんは、また一人になりました。でも、インマヌエルの主が共におられ、今も教会で御奉仕に励んでおられます。

 

結び:はじめにあった神の思い、それはインマヌエル

「神我らと共にいます」神が人と共におられる。これは神様の方が初めの初めに思ってくださったことです。星野富弘さんの詩に、「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのりより大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった」という詩があります。また、「『生命は大切だ』『命を大切に』、何千、何万回言われても、『あなたが大切だ』、誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける」…これは、テレビで放映された公共広告機構のメッセージですが、まさに神は、「あなたが大切だ」と言ってくださるお方です。

このクリスマスシーズン、神様の思いが何なのか、このことを心に留めてまいりましょう。

私たちの人生にも、いつ何が起こってくるかわかりません。でも、インマヌエルの神が共にいてくださることを心に留めて、クリスマスをお祝いいたしましょう。