2018年12月16日のメッセージ

ルカによる福音書第1章39節~56節

 

そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。するとマイヤは言った、

「わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、

力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。

そのみ名はきよく、

そのあわれみは、代々限りなく

主をかしこみ恐れる者に及びます。

主はみ腕をもって力をふるい、

心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、

権力あるものを王座から引きおろし、

卑しい者を引き上げ、

飢えている者を良いもので飽かせ、

富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。

主は、あわれみをお忘れにならず、

その僕イスラエルを助けてくださいました。

わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを

とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。

 

「大きな事をされる主」       

 

 今日もこうして、皆さんと一緒に御言葉の恵みを分かち合うことができ、心から感謝しています。12月に入っていよいよ寒くなってきました。この季節は、朝起きて布団から出るのがつらくなってきますよね。先日も朝起きて、暗い中手探りでメガネをかけて廊下に出ました。洗面所に行ったところで電気をつけたのですが、どうしたことか、全然目の焦点が合わないのです。こんなことは初めてでしたので、焦って何度も目をこらすのですが、どうしても視界がぼやけてしまいます。「昨日は睡眠時間が少な目だったからそのせいかなぁ…」「そろそろ老眼が来たかなぁ…」などと考えてしまったのですが、メガネを外して納得しました。なんと、家内のメガネをかけていたのです。自分のメガネをかけたら、いつものようにくっきり見えたんですね。朝からびっくりしましたが、おかげさまでその日は目覚めスッキリでした(笑)。

 私には私専用のメガネが必要なように、聖書を読む時には聖書を読む用のメガネが必要です。それは、「神さまはわたしを愛している」というメガネですね。その視点で聖書を読んでこそ、聖書の言葉をとおして伝えたい、神さまからのメッセージがわかるのです。今日もその思いを持って、聖書の御言葉に目を向けてまいりましょう。

 さて今日は、アドベントに入っていることもありまして、クリスマスにまつわる聖書の箇所を読んでいただきました。特に46節からのところは、詩のような形になっています。ここはマリヤが神さまを讃えて歌った、「マリヤの賛歌」なのですが、その出だしの言葉から、「マグニフィカート」と呼ばれています。日本語ですと、「主をあがめ」ますということですが、この言葉は本来、「大きくする」という意味です。そしてその言葉は、49節でも使われているんですね。「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださった」、この「大きな事」です。マリヤは、「私は神さまを大きくします!なぜなら神さまが私に、大きな事をしてくださったからです」と、神さまを賛美しているんですね。この神さまのしてくださった大きな事とは何でしょうか。今日はこのマリヤの賛歌から、ふたつの点で考えてみましょう。

 

1. 神さまの「あわれみ」

 ひとつ目の大きな事とは、「神さまのあわれみ」ということです。このマリヤの賛美の中に、「あわれみ」という言葉が、50、54、55節と、3回くり返されているんですね。神さまは、私のことをあわれんで下さった。日本語の辞書を見ると、あわれむとは「同情する」とか、「かわいそうに思う心」というような意味です。しかし今日の箇所の前の箇所を見ますと、貧しくも幸せなマリヤのところに御使いがやってきて、「あなたは救い主を身ごもる」と告げた。これは、その幸せをぶちこわすような告知でした。最初は恐れて戸惑ったマリヤでしたが、御使いとのやり取りによって、「お言葉どおりこの身に成りますように」と信仰に立てたのです。とはいえ、神さまの方からそんな状況にしておいて、同情するとか、かわいそうに思うと言われても、「あんたがそうしたんやんか!」とツッコミを入れたくなるような気がするのです。

 実は、この「あわれむ」ということについては、マリヤ自身の言葉の中に、神さまからかけられたあわれみを表す言葉があるんですね。48節のところですが、「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」とあります。神さまはあわれみのお方であり、私を「心にかけて」下さったと、マリヤは歌います。これは別の訳では、「目を留めてくださった」となっています。この言葉には、「相手に向かって自分の方から身を向け、正面から視線を向ける」という意味があるのだそうです。神さまが自分の方を向いてくださり、目を注いでくださるということなんですね。これは神さまが、自分を大切な者として取り扱ってくださることのしるしなんです。

 御使いの告知を受けて信仰に立ったマリヤでしたが、それでも不安になったのでしょう。御使いが「あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています」と言っていたことを思い起こし、大急ぎでエリサベツのところに出かけていきました。エリサベツは「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」と語り、「お言葉どおりこの身に成りますように」と、マリヤが信仰を持って受けとめたことが幸いなことなんだと、確信させてくれました。そこからこのマリヤの賛歌が生まれたわけですが、マリヤは、信じても不安になるような自分と、ちゃんと正面から向き合って下さって目を注いでくださる神さまに気づかされ、その神さまを心から讃えたのです。

 心にかけてくれているって、とても嬉しいことだと思います。以前加古川におりました時、教区の牧師会に行くと嬉しく思うことがありました。その頃の宝塚泉教会の牧師は、今四国におられます杉野先生だったんですが、牧師会に行って杉野先生に会いますと、挨拶もそこそこに、「加古川の特伝どうだった?」とか、「こどもクリスマス会どうだった?」って、必ずと言っていいほど聞いて下さるんですね。牧師会で「今度こういう集会があります」って報告したことや、教区の祈祷課題を見ておられて、覚えてお祈りして下さっていたんです。そうやって、心にかけてくれている、目を留めてくれている人がいるって、嬉しいなぁと思いました。

 神さまが心にかける。これはマリヤだから、救い主のお母さんだから、特別に心にかけて目を留めて下さったのでしょうか。そうではありません。50節を見ますと、「そのあわれみは、代々限りなく、主をかしこみ恐れる者に及びます」とあります。2000年の時を超え、今、みなさんお一人一人を、神さまは心にかけ、目を留めていて下さるんですね。この神さまに、こちらも心を向け、目を留めて歩ませていただきたいと思うのです。

 

2. 神さまの「力」

 もうひとつは、「神さまの力」ということで考えてみたいと思います。マリヤは、神さまが「わたしに大きな事をしてくださった」と賛美しましたが、その神さまはどんなお方かと言いますと、その49節では、「力ある方」と表現されています。また、51節にも、神さまが「力をふるい」と書かれております。神さまというお方は、一体どんなことにそのお力をあらわされると歌っているのでしょうか。詳しく見てみましょう。

 51節からをお読みします。「主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます」。高ぶる者が引き下げられ、弱い者、虐げられている者が引き上げられる。飢えている者は満腹になり、富んでいる者は空腹で帰る。読んだ印象としては、何となく社会派と言いますか、実際の社会が変えられていくような印象を受けるような表現です。しかしある先生はこの事について、これは「社会変革の歌と言うより、<運命の逆転>による新しい未来を歌っている」のだ、と言われているんですね。そして、イエスさまというお方は、しばしばこの<運命の逆転>を語られるんだというのです。例えば、ルカ6:20の“山上の説教”においては、「貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである」(6:20)と語られていますし、12章にある“愚かな金持ちのたとえ”では、ある金持ちが豊作で喜び、「もっと大きな倉を建てよう。これで私は安心だ、食え、飲め、楽しめ!」と言っているところに、「お前は今夜のうちにも取り去られる」、つまり死んでしまうのだと神さまに言われしまいます。

 私たちの生きる世の中は、結局のところ強い者の声が大きく取り上げられて、それが正しいことになってしまうような気がします。また、何かを持っていることがよいこと、あるいは、豊かであればあるほどそれが祝福であるというような風潮があるように思うのです。しかし、だからこそ、自分が弱い立場にある時には、何とも言えない虐げられた思いになってしまう。また、みんなが手にしているものを持っていなかったり、また、自分が欲しいと思っているものが手に入らない時には、何とも惨めな思いになってしまう事があるのではないでしょうか。社会全体がそうですから、そう思ってしまうのはしょうがないことだ…と思うかもしれません。でも神さまは、そういう私たちを心にかけてくださる。そして心にかけるだけではなく、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので満たして下さるという、大逆転をなし遂げて下さる。そこに神さまのお力を働かせて下さるのです。

 でも、最大の運命の逆転は、イエスさまの救い主としての生涯そのもの、なんですね。イエス・キリストの十字架と復活です。教会ではこのようにして十字架をシンボルとして掲げていますけれども、これは本来、死刑の方法です。しかもこれは、世界で一番残酷な刑罰の方法とも言われます。罪を犯すとこうなるぞ、それが嫌なら、絶対に悪いことをしてはいけないぞという、まさに見せしめのしるしでした。しかし、イエスさまが私たちの罪の身代わりとしてこの十字架にかかって死んで下さり、罪を完全に精算して下さった。そして、死んで終わりではなく、死を打ち破ってよみがえってくださっいました。そのことによって、このイエスさまの十字架を信じるすべての者が、罪ゆるされ、永遠の命に生きるという勝利の人生を歩むことができるようにしてくださったのです。

 このイエスさまの十字架がなければ、私たちは自分で自分の罪をどうすることもできず、世の価値観に翻弄され、社会の片隅で寂しく死んでゆくばかりだったかもしれません。しかし、このイエスさまによって、永遠の命という、大きな希望に開かれた人生へと、大逆転させていただいたんです。この神さまのお力を、どれだけ確信しているでしょうか。安く見積もっていないでしょうか。周りにどんなに圧倒的な力、勢いがあったとしても、そこに大逆転をもたらして下さる神さまのお力を信じて、今日もここから遣わされていきたいと思います。

 

<まとめ>

 神さまは、心にかけて下さるお方です。そしてこの神さまのお力は、私たちの想像を遙かに超える、大逆転の力です。どうすればこの神さまの恵みにあずかれるでしょうか。マリヤは48節で、「この卑しい女をさえ」と言いました。自分の罪深さ、卑しさを認め、神さまの前にへりくだる者、そのような者こそが、この恵みにあずかることができるのです。ひと言お祈りをさせていただいて、終わります。

 

<祈り>

 愛する天の父なる神さま。こうして愛する皆さんと一緒に、アドベント第三週の礼拝をささげることができ、心から感謝します。今日の聖書の箇所にある、イエスさまの母となるマリヤの賛歌を通して、もう一度あなたを仰がせていただきました。私たちは日々の生活の中で、誰も自分のことを見ていないように思えたり、自分の頑張りを認めてもらえないように思わされる時があるかもしれません。でも神さまは、いつでもどんな時でも、私のことを「心にかけて」いて下さるお方であることをもう一度知り、本当に嬉しく思いました。心から感謝します。

 そしてその神さまが、こんなちっぽけで罪に満ちた私を、罪から解放し、救われて永遠の天の御国を目指して歩む人生に大逆転させて下さっていることを思い起こすことができ、心から感謝します。クリスマスは私たちの大逆転のために、救い主が生まれて下さったことをお祝いする時です。それがどんなに凄いことで、どんなに感謝なことであるか、その恵みを味わいながら、今年もクリスマスを迎えさせていただくことができますように、お願い致します。

 今日は、夜、クリスマスの感謝会を行う予定です。多くの方が参加して下さる予定ですが、どうぞこの時が祝された恵みの時となることができますよう、導いて下さい。また次週はいよいよクリスマス礼拝です。寒くなってきていますけれども、私たちの健康が守られて集うことができ、共にクリスマスをお祝いすることができますように。また今日も、病や痛み、弱さの中にあって来ることができなかったお一人一人の上には、あなたのいやしの御手を差し伸べて下さり、私たちと同じ恵みを注いで下さいますよう、よろしくお願い致します。

 このお祈りを、愛する主、イエス・キリストのお名前によって、お献げ致します。アーメン。