2018年11月25日のメッセージ

マタイによる福音書第5章17節~20節

”わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。”

 

「天国に入る義」      

  

先日、豊中のある姉妹が、箕面の滝に紅葉を見に行ってこられ、おみやげに“もみじの天ぷら”を買ってきて下さいました。久しぶりに食べましたので、懐かしさとおいしさで、とても満足しました。また、売っているお店が並ぶ光景を思い浮かべたり、子どもの頃に自転車であそこまで行って、無料のケーブルカーで箕面スパーガーデンに行った思い出を思い起こしたりと、箕面に行ったわけでもないのに、箕面を満喫した気分になりました。

 そのことを思いながら、ふと、聖書の御言葉を味わうのも同じかもしれないと思いました。私たちは天国に行ったことも、神様を見たこともありません。でも、聖書の御言葉を通して、その神の国に思いをはせて、そして御言葉によって天の御国を先取りして、満喫できるように思います。今日も御言葉を通して、神様の恵みを味わわせていただきましょう。

 

 さて、イエス様の語られた山上の説教からシリーズで学んでいますが、前回は、「あなたがたは地の塩である」「世の光である」ということから学びました。私たちは世の光だ。私たちの「よいおこない」によって周りの人たちが神様をあがめるようになることを、イエス様が言われたわけですが、今回の箇所でもこの「よいおこない」ということについて語られています。

 当時のユダヤ人たちにとって、「よいおこない」とは、「律法」を守って生きることでした。17節に「律法や預言者」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書に語られていることに従って生きる、特に律法を守って生きることこそ、神様の前に正しい、よい行いであると、誰もが思っていたのです。

 ところが、ここでイエス様が「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。」と言われていますように、イエス様の語られたことや行動は、今までの律法を守る生き方とは違っていたようです。そして人々には、律法を廃する、  これはぶっ壊すという意味ですが  、イエス様が律法をぶち壊しているように見えたみたいですね。イエス様は、「そうじゃないんだ、私は、律法を成就するためにきたのだ」と述べて、21節以降からは、律法を一つ一つを具体的に取り上げて、丁寧に解説してゆきます。今日の箇所はまさにその緒論のようなところですが、20節を中心に、二つのことで考えてみたいと思います。

 

1. 律法学者やパリサイ人の義

 まず、「律法学者やパリサイ人の義」ということで考えてみましょう。このことを理解するためには、まず「律法」とは何か、ということを考えておく必要があります。「律法」とは、簡単に言えば、神様が人間に示された、こうやって生きてゆきなさいという、行動の基準です。旧約聖書の出エジプト記において、神様はモーセを通じて「十戒」をお与えになりました。ユダヤ人は旧約聖書の最初の5巻、創世記から申命記までを「律法」と呼んでいますが、そこにはその「十戒」を中心として、律法のいろいろな細かい規定が書かれています。

 しかし、なぜ神様はそのような律法をお示しになったのでしょうか。それは人間が神様の前に生きる生き方を見失ってしまったからです。創世記の最初に書かれていますように、アダムとエバが罪を犯し、人間は神様の前に罪人になってしまいました。しかし、神様は、律法によって人が本来あるべき姿を教え、これを完全に行うようにと、示されました。そしてこの律法の求めるところにかなって正しく生きる者には、祝福を与えると約束されたのです。この律法を全部きちんと守ることができたら、神様の前に「あなたは正しい」と認めてもらえる。それが律法なのです。

 パリサイ人や律法学者たちは、旧約聖書の律法を日夜学び、それをきちんと守り行っていくためにはどのように生活すべきかを研究し、そしてそれを実践すると共に、人々に教えていたのです。「よいおこないをしなさい」ということは、あの律法学者やパリサイ人のようになりなさいということだと、誰もが思っていました。

 ところが、実際にその律法の求めるところを完全に満たすことのできる人がいたかというと、残念ながらそうではありませんでした。人はみんな罪人ですから、この律法の要求に、いつでもどんな時でも100%応えることのできる人はいませんでした。律法が存在することによって、枠がひかれて、あなたはこの枠から外れてる、正しくないよと、かえって人の罪がいっそう具体的に示されるようになったのです。パウロもローマ3:20で「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」と述べています。

 しかしその事実を、律法学者やパリサイ人たちは認めようとしませんでした。その律法の周りに、律法を拡大解釈した「先祖たちの言い伝え」なるものをつくり、それを守っていたら律法を守ったことになると、その枠組みをゆがめていたのです。例えば、「安息日をおぼえてこれを聖とせよ」という十戒の項目がありますが、安息日に仕事をするなということで、安息日に人をいやすのは仕事とみなされるから禁止、2キロ以上歩くのも仕事とみなされるから禁止、ものを空中にほうり上げるのも仕事になるから禁止。私たちはそれをしないで守ってるから、私は正しい。当然天国に行ける。そういうことにしてしまっていたんです。でもそれは自分たちの決め事を守っているだけで、そこに神様が失われているんです。そのことを認めず、嘘とおごり高ぶりで塗り固め、「自分は大丈夫」と言ってしまっていたのです。

 果たして、自分はどうだろうか、大丈夫だろうかと、あらためて考えさせられました。「自分はクリスチャンとして、こうして礼拝に来てるよ。お祈りもするよ。特別神様に背くようなこともしてないし、私は大丈夫だよ~」。確かにそうかもしれません。でももしそれで、聖書の言葉を通して、「この問題はどうなんだ?」「ここは大丈夫なの?」と問いかけてこられる、神様の声を無視しているとするなら、私たちもまた、この律法学者やパリサイ人の義と同じなのではないでしょうか。この朝もう一度、神様から私への問いかけを考えてみましょう。

 

2. それにまさる、天国に入る義

 次に、「それにまさる、天国に入る義」ということについて考えてみたいと思います。今申し上げたように、律法とは、枠線を引いて、この中なら義、これを外れたら義ではないよ。それを教えて、私たちに罪の自覚を生じさせるものです。それだけだったら、一体どこに救いがあるんだろうと思わされます。

 でもイエス様は、ここに律法の限界があるから、律法は廃止、もういらない、とは言われなかったんですね。「廃するためではなく、成就するためにきた」と言われました。実は別の訳では、「完成するために」と訳されるのですが、そうすると律法は未完成だったとも受け取れてしまいます。しかしそうではなくて、律法の目指そうとしたことは間違っていないのです。でもその目的がちゃんと果たされるのは、この言葉を語っている、イエス・キリストにおいて果たされるということなんですね。

 少し余談ですが、18節でイエス様は、「律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとくまっとうされる」と言われています。律法はヘブル語で書かれていましたけれども、このヘブル語のアルファベットというのは、とてもよく似た文字があるんですね。例えばこちらをご覧いただきたいと思うんですが、ここにヘブル語のアルファベットが3つ並んでいます。左側の「ヘー」と真ん中の「ヘーツ」、違うところは、左の縦棒がくっついているかつながっているか、ですよね。そして真ん中の「ヘーツ」と右側の「タウ」は、左の縦棒の下が、左にはねているかいないか、という違いです。ちょっと違っただけで違う文字になってしまうんです。この文字だけではなくて、同じようなことが他の文字でもいろいろあるんですよね。これを勉強せなあかんのですから、牧師はそれこそ、パズル好きでないとできないかもしれません。

 でも、このちょっとしたことで変化したり失われそうなアルファベットの「一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」とイエス様は言われました。それくらい、この律法の求めることは大切だということです。では、この律法の要求するところを全うする生き方、まさに、律法学者やパリサイ人の義に勝って、天国に入ることのできる義とは、どのようなものなのでしょうか。

 聖書や教会の教えを知らない世間の人々は、クリスチャンはいわゆる「よい行い」をする人だと思っている傾向があると思います。「自分はそんな立派な人にはなれないから信仰なんかいいよ」、と言われる人もおられるでしょう。一方で、「クリスチャンなんて、よい行いをしている者のふりをしている偽善者だ」と言われるかもません。そういう世間の見方に対して私たちは、クリスチャンは決して立派な人間ではないし、よい行いができなければクリスチャンになれない、というようなことはありませんね。私たちは自分が立派な人だとは思っていません。むしろ自分が罪人であることを、律法によってまざまざと見せつけられている者です。律法の役割は、「あなた罪人でしょ?間違いないよね?」それを示すことです。そこまでです。本来ならば、そのような罪のある者は、神様との関係が崩れ、そのせいで人との関係も崩れ、最後には永遠の滅びに至ってしまいます。

 しかし、イエス様は、そのような罪人の私たちが、自分の罪がゆるされて、神様の前に正しい者と認められて歩んでゆくことのできる道を開いてくださいました。それが、この正面にもあります、十字架による救いの道です。十字架は本来死刑の方法です。しかも極刑です。極悪非道な犯罪人を処罰するものです。イエス様は、罪のかけらもなかったお方ですが、極刑に値する罪人として十字架にかかって死んでくださいました。それは、イエス様が私たちすべての者の罪をその身に背負ってくださったからです。律法によって示される、罪深い自分。でも、その罪は、他でもないこの私の罪は、あの十字架の上でもう既に罰を受けている。だから、このイエス様の十字架を私のためと信じる時に、私たちの罪はゆるされて、神様の前に義と認められるんですね。これを守った、これができているということを積み上げて認められる正しさではなくて、その罰はちゃんと受けてるから大丈夫、あなたは無罪放免ゆるされている。そうやって、私たちはイエス様の十字架によって義と認められるのです。そして、死から復活されたイエス様と共に、新しく生まれかわった者として生きることができます。これが、律法学者やパリサイ人の義に勝る、天国に入ることのできる義なんですね。

 私たちはこのイエス様の十字架と復活に裏打ちされた義によって、今、神様の前に「よい行い」を選び取ってゆくことができます。今もう隠退された藤巻充先生が、聖書学院の授業で言っておられたことを思い起こします。放蕩息子の譬え話がありますよね。父の遺産を持ち出して放蕩三昧つくしてみじめに帰ってきた弟息子を、父は抱きしめて迎え、宴を催すんですが、あの話になると藤巻先生は、決まって質問されるんですね。「弟息子、次の日の朝何時に起きたと思う?どうなのよ?」そんなことは聖書に書いてありません。でも藤巻先生は言うんです。この弟息子は、きっと、朝早く起きて言うはずだ、「お父さん、ぼくは何をさせていただきましょう?」

 絶大な愛でゆるされた者は、その愛に何とかして応えたい、そう思って「よい行い」をしていこうとする。私たちもこれですよ。イエス様が命をかけて、死にゆくほかにない、罪人の私を救ってくださった。こんなにありがたいことはない。このイエス様に何とかして応える思いをもって、私たちも「よい行い」に励む者でありたいと思うのです。最後に20節をお読みして終わりたいと思います。「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」。

 

 律法の、聖書の示す生き方に照らし合わせるとき、自分の罪深さを思わされることです。でも、こんな自分のためにイエス様が十字架にかかって下さった。神様が絶大な愛をもって私を愛して下さっている。その愛によって救われていることをあらためて感謝すると共に、この神様に、「神様私は何をさせていただきましょうか?」と、「よい行い」をもって応えて歩むことができますように、心からお願い致します。

 

 寒さが増してきていますけれども、皆さんの健康が守られ、今週一週間の歩みの一歩一歩をお守り下さいますように。