2018年11月18日のメッセージ

使徒行伝第17章16節~34節

 

「神の手の中で」

 

1. ピリピからテサロニケ、ベレヤを経てアテネへ

前回は、ヨーロッパにおける最初の伝道の結果として、ピリピ教会が誕生したことを学びました。

その後、一行は、ピリピを後にしてテサロニケへ向かいました。

パウロはここで自ら働いて生計を立てていた様子もあることから(テサロニケ2:9)、ある程度の期間、ここに滞在して伝道したものと思われます。

パウロの説教に心を捕えられた「ギリシャ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった」(4節)と記されています。

ここでもユダヤ人たちの迫害に遭い、パウロとシラスは同信の兄弟たちに守られて、こっそりとベレヤに送り出されました。

ベレヤのユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、多くの者が信者になり、また、ギリシャの貴婦人や男子などを含む多数の人々が入信したのです(12節)。

それを知ったテサロニケのユダヤ人たちがベレヤまで押しかけてきて騒ぎを起こしたため、シラスとテモテがベレヤに残り、パウロだけが兄弟たちに守られ、先にアテネに向かいました。しかし、まもなくパウロから、一刻も早く来るようにとの伝言が届けられ、彼らもこの地を去ることになります。

 

2. アテネ伝道

アテネ伝道は、当初、パウロの計画にはなかったようで、テサロニケを追われて辿りついた所がアテネだったというのが本当のようです。

このことから、伝道とは、人間の知恵によらない、神のわざであることを学ばされます。

当時、ヨーロッパ世界の政治的中心がローマだとすると、アテネは文化的中心だったと言えます。

パウロは、いつもは町へ着くや否や、会堂に出かけて行って説教を始めるというのが常でしたが、ここアテネでは、シラスとテモテの到着を待っていたようです。

パウロは、初めて見るアテネの町を興味深く見て回りました。故郷のタルソや勉学をしたユダヤの町では想像もできなかった文化都市の姿に、目を見張ったのではないでしょうか。

でも、もし、イエス・キリストがこのアテネに来たら、どうだったでしょうか。あの辺鄙なガリラヤに育ったイエスは、パウロ以上に目を見張ったかもしれません。そして、一体、どんなことを語ったでしょうか。

 

パウロは、アテネの町を一巡して、2つのことに気付いたようです。

1つは、アテネには立派な神殿や、その他の建物がたくさんあるということ。

もう1つは、この町のいたるところに金や銀などで作られた神々がまつられているということ。

この2つのことから、パウロはこんなことを感じたのではないでしょうか。「アテネの人々は、神様をいろいろな形に閉じ込めている。」パウロは、そんなことを感じたり、驚いたりして、アテネの町を巡っていましたが、シラスとテモテの到着を待ちきれずに、ユダヤ人たちの集まっているところや広場で、キリストについて語り始めました。

まことの神様は、形に閉じ込められるお方ではないというパウロの心の思いは憤りとなって、ほとばしり出たことでしょう。

そのうち、アテネの人たちは、パウロの語ることに興味を覚えたらしく、アレオパゴスという評議所にパウロを連れていきました。

評議所というのは、一種の裁判所です。思想や宗教に関する裁判所というべきでしょうか。

新しい思想や宗教に対して、これは健全な教えか否かをここで決めるのです。だから、ここの裁判官たちは多くの知識に通じていなければなりません。

そんなところにパウロはつれて行かれたのです。そして、たった一人で、自分の信仰について語らなければなりませんでした。

さて、評議所に立たされたパウロは何を語ったのでしょうか。

彼はアテネ市内を歩き回って感じたことを、はっきり述べています。そして、神様はアテネの立派な神殿などには住まないし、人間が作った金や銀の形とは全く関係ないと言い切ったのです。

24節~25節を読んでみましょう。

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。」

アテネの人たちが大きな誇りとしていたものを、真っ向から否定したのです。

ここで、パウロが問題にしていることは、神という方は立派な建物でなければならないとか、金や銀という高価な材料で作られなければならないと、アテネの人たちが考えていることです。

そして、神を人間のなすこと、すなわち、“人間の手の内に収めてしまっている”ということを、ここで言っているのです。

「神たるものを人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと見なすべきではない。神はこのような無知の時代をこれまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でもみな悔い改めなければならないことを命じておられる。」(29~30節)

と悔い改めを迫ります。

そして、キリストによる救いを語ります。

今こそ人は救いの確証である十字架と復活の出来事を、自分のこととして受け止め、キリストを信じて救われるように勧めます。十字架の赦しと救いを依然として拒み続けるなら、神は断固としてこれを裁かれます。

十字架と復活は神から提供された無代価の恵みです。

人はこの恵みを前に受容か拒絶かの決断を迫られます。これを受け入れることによって罪は赦され、拒むことによって神の裁きを受けるのです。

これまで静かにパウロの話を聞いていたアテネの人々は、パウロが復活の話を始めると、ある者は嘲笑い、他の者たちは、「このことについてはいつか又聞くことにしよう」と言ったのです。不幸なことに、アテネの大部分の人たちは、復活につまづいてしまいました。

こうして、パウロはアレオパゴスを去ります。

ここでのパウロの伝道は、不成功だったのでしょうか。

その評価を私たちがする必要はありません。

ここに導かれたのが神であるならば、ここを静かに去らせるのも神です。伝道はすべて神の御手の中で労する「神のわざ」への参与であり、すべての決着は神がつけてくださるのです。

しかし、ここでも、「彼にしたがって信じた者も幾人かあった。」(34節)と記されています。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオとダマリスという女性、また、その他の人にもいたのです。それは尊い幾人かでした。

 

3. 神の手の中で

パウロは、アテネの人たちに、神様は人間の手に収まる方ではなく、人が神の手の中にある者だと語りました。

神様の手の中に生かされている。

私たちへのメッセージがここにあるように思います。

それは、私たちはどんなことがあっても、最後には守られるということです。二兎には、頑張ってもできないことがあります。

そのときは悔しいし、空しい。でも、もし、私たちが神様の手の中で生かされていることを思えば、頑張ってもできないことがあるのは当然だと思えてくるのです。そして、「できないところを引き受けてください」という祈りが生まれてきます。

そして、できるところを一所懸命やっていこうという思いにもなります。

イエス・キリストは野の花の咲き乱れるガリラヤの丘で、

「野の花、空の鳥を見よ。彼らはまかず、刈らず、倉に収めない。ただ自然からの装いを受けて今日を生きている。だから、明日を思いわずらうな。」

と言われました。野の花、空の鳥は大きな神殿も作らず、金や銀で神の形も造らない。神様を自らの手の内に収めようとしないで、ただ神の手の中に生きている。このような野の花、空の鳥を見よと主は言われます。

私たちの人生には、失敗と思われるようなこともあるかもしれません。でも、すべてが神の手の中にあると信じていきたいですね。

 

パウロたちはテサロニケに行っても追い出され、ベレヤに行っても追い出され、さらにアテネでもあまり上手くいかなかったというような見方もできますが、現在のテサロニケやアテネ、ベレヤなどに行ってみますと、神が本当に驚くことをしてくださったと感じます。アテネで信じたのは、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女性、その他数人しかいませんでしたが、その一握りの人がキリストを信じてアテネで伝道した、その結果、アテネには教会が無数にできていくのです。

それは、2000年近い年月がかかったのかもしれませんが、国中の人々がキリストの福音に接するような機会を作っていったのです。

 

結び:私の時はあなたの御手にあります

私たちの歩む一つ一つの歩みは、神の御手の中にあります。失敗のようにみえることも、時を経て、あの時はあれでしかなかった、すべてが神の手の中にあった、と思える時、きっと神様が良いようにしてくださる、そう思い、心の荷を主のもとにおろすとき、慰めと平安が与えられます。

主人が天に召されて4ヵ月。

最近、こんな思いが心の中を占めていました。

本当にあの時の決断は間違っていなかったのか。

主人がドクターヘリで運ばれ、脳の損傷があまりにもひどく手術もできないままで、集中治療室の器械につながれていた時、病院側から、心臓の数値が0になったらどうしますか。延命措置をしますか。心臓マッサージをしても多分体がもたないでしょう、と言われ、延命措置はしないでいいと答えました。それで本当によかったのだろうか。

もしかしたら、奇跡が起きたかもしれなかった?そんな思いが心の中を占めていった時、「わたしの時はあなたの御手にあります。」(詩編31:15)との御言葉が心に響いてきました。

延命措置はしないでいいと言ったことが、本当によかったのかどうか、判りません。

でも、すべては神の手の中にあったと信じていきたいと思います。

今、これを読まれているお一人お一人も過去を振り返る時、本当にあれでよかったのだろうかと思うことがあるかもしれません。

主イエス様を心にお迎えし、神の手の中にある自らを委ねるとき、「私の時はあなたの御手にあります」と言えるのではないでしょうか。