2018年11月4日のメッセージ

マタイによる福音書第5章13節~16節

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 

「地の塩、世の光」                   

 

 

 少し前のことですが、メガネ屋さんで視力を測っていただいている時、お店の方に、「利き目って、どっちですかね」ときかれました。そんなことは考えたこともありませんでしたので、「いやぁ、多分右ちゃいますかねぇ」と適当に返事しましたら、その方が、「ちょっと見てみますね~」と、調べ始めました。そして、ものすごい重大発表をするように、「利き目…、左ですね!」と言われたんです。それを聞いた私は、口に出しては言いませんでしたが、心の中で「そ、その知識、必要??」という思いが渦巻いておりました。

 聖書は知っていた方がよいのか、迷うようなことは教えません。私たちに必要不可欠なことを教えてくださいます。そのなくてはならない聖書の言葉に、共に耳を傾けてまいりましょう。

 さて、今回も、マタイによる福音書にあります、イエス様の語られた山上の説教から学びます。前回までのところでは、「〇〇な人たちは、さいわいである」という箇所から学びました。でも、山上の説教はそれで終わりではなく、むしろここからが本番のようにして続いていきます。今回の箇所では、イエス様が「あなたがたは、地の塩である」、「あなたがたは、世の光である」と言われていますが、それぞれどのような意味があるのか、考えてみましょう。

 

1. 地の塩

 まず「地の塩」ということですが、塩と聞いて、真っ先に何を思い浮かべるでしょうか。私は、キッチンに置かれている塩の入れ物を思い浮かべます。そして、あれを直接なめることを想像すると、それだけで口の中につばが広がっていくような気がします。13節でイエス様は、「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか」と言っておられますが、「塩のききめがなくなることってあるのかな?」と思います。でも、当時はあったようです。当時の塩といえば、いわゆる岩塩が主流だったようです。そして、岩塩は長時間おいておくと、その塩のききめが抜けてしまったようです。確かにそうなったら、イエス様が言われたように「外に捨てられて」しまうでしょう。

 ここで「塩のききめ」とありますが、塩にはいろいろなききめ、効果があります。何よりまず挙げられるのは、味を付けるということです。そして、食べ物が腐るのを防ぐ、防腐剤の役目もあります。また、お相撲さんが土俵で塩を撒きますが、あれはお清めという意味でしているわけです。それぞれの意味でここをひもといてゆくこともできると思うのですが、イエス様は「味」ということに触れていますので、今回は味付けという面で見てみたいと思います。

 塩で味付けをするというときに、どうでしょう。スープが出てきて、もしも、そこに目で見てわかるくらいに塩の固まりがゴロゴロしていたらどう思うでしょうか。「この料理は確実にしょっぱい!」と、誰もが思います。食べるのに躊躇すると思います。味付けで塩が用いられるというとき、その塩は少量です。そして料理の中に姿を隠します。それは、その食べ物の味を生かすためです。そのような塩本来の働きをするためには、塩が自己主張してはいけません。

 イエス様は、私たちが「地の塩」だと言われましたが、それはまさに、この塩のような働きをしてゆくことを指しておられるのではないでしょうか。「地」とは、私たちが実際に生きている、この世の中を指しています。そして、その「地」は、とても味気ない面があります。例えば、お金が全て、という風潮があります。結局のところ、頼りになるのはお金。お金があれば安心。お金が全て、などという生き方は、実に味気ない生き方だと思います。

 また、自分がよければそれでいい。自己中心的な生き方。特に現代は、誰かのために生きることよりも、自分が大事。自分がよければそれでよい。誰かのために生きるなんて考えもしない、という人もいるようです。ですから、公共の場でもマナーが悪かったり、思いやりがなかったりする。先日ある方が、電車で具合が悪くなってしゃがみ込んでしまったのですが、誰一人声をかけず、席を譲ってくれる人もなかったそうです。寂しいというか、味気ない時代だなぁと思わされました。

 他にも色々と味気なさを感じさせられることはありますが、でもそういう時代のただ中で、そうじゃない、お金が全てじゃない、それよりももっと大切なことがある。自分がよければそれでいいというわけじゃない。誰かのために生きることで祝される生き方もある。私たちはイエス様を信じることによって、そういったことを知るものとならせていただいています。私たちは浮き世離れのようにして、「地」と違うところで生きるのではなくて、その中に溶け込んで、そのような生き方をすることによって、味気ない「地」を、味わいのあるところに変えてゆくことができるのです。

 あるミッションスクールの先生がチャペルの時間に言われたそうです。「味付けの塩は少量で充分で、量が多かったら大変です。地の塩から言えるのは、塩の人たちは“少人数を恥じない事”です」。遣わされてゆく「地」では、私たちは圧倒的に少数派でしょう。でも、塩は少量でいいんだと、少数派を恥じないで、そこで地の塩として歩ませていただきましょう。

 

2. 世の光

 次に、「世の光」ということで考えてみたいと思います。あらためて考えてみると、実は「地の塩」ということと「世の光」ということで、イエス様は別々の2つのことを教えようとなさったわけではないようです。2つの例えを通して、同じことを言おうとしていると思います。

 塩にせよ、光にせよ、それは周りに影響を与えてゆきます。塩の場合は自分の姿を隠し、溶け込んで影響を与えますが、光の場合は逆だというのです。14節で「山の上にある町は隠れることができない」と言っているのは、それだけ目立つということです。そして15節で「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである」と言われていますが、まさにこの燭台のように、皆が見えるところに置かれ、周りを照らす。「世の光」として、あなたがたはこの「世」にあって「あなたがたの光を人々の前に輝かし」なさい、とイエス様は私たちに勧めておられます。

 しかしあらためて、「あなた、世にあって自分を輝かせなさい!」と言われると、「自分がですか?自信ないなぁ…。私には無理です…。」と言いたくなる部分もあると思います。でも覚えさせていただきたいことは、自分が輝くことが目的なのではない、ということです。目的は何か。それは16節の最後にあります。「そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。目的は、周りの人が神様をあがめるようになることなのです。ここで「よいおこない」と言われているような、人を活かし、神様に喜ばれるような行動をしていくのは、それによって周りの人が神様を知り、神様をあがめるようになるためなのです。

 自分の行動によって、誰かが神様をあがめるようになる。そういうことって、あると思います。私が献身して、東京聖書学院で牧師になるために学んでいた時のことです。3年生の時だったでしょうか。ある朝事件が起こりました。授業に向かおうと寮を出ようとしたら、ちょうど目の前でドアがスーっと閉まってくるところでした。そのドアは、一面ガラスのドアだったのですが、とっさに、手ではなく、足で押さえようと軽く右足を出しました。すると、それがいわゆるカウンターパンチのようになったのでしょう、つま先の当たった左下から、一瞬でそのガラスにバシバシッと、クモの巣のようにひび割れが広がって割れてしまったのです。ガラスに針金が入っていたので飛び散らなくってよかったのですが、ビックリして、あわてて舎監の先生のところに行って謝りました。「正直にすぐさま謝れば何とかなるかな…」と淡い期待を抱いていましたが、舎監の先生には、あっさり、「これは弁償だな。しょうがないな。」と言われました。そりゃそうです。ごもっともです。

 そして次の日に、ガラス屋さんに来ていただいて見積もりしてもらいましたら、どうも扉一枚物で針金入りというのは一番高いそうで、何と7万円ぐらいするというんです。そんなお金はないですが、もちろん自分で何とかしなきゃいけない。本当に後悔しながら、祈りながらおりましたら、見かねた同級生が男子寮のみんなにカンパを募ってくれました。本当に申し訳なかったのですが、ありがたくいただきました。でも、自分の手持ちにそのお金を足しでも、やっぱりまだ足りないのです。「これは困ったなぁ…」と思いながら悶々と一日を過ごしていたのですが、夜になって、食堂の自動販売機にジュースを買いに行きました。食堂には、自分宛に来た郵便を仕分けして入れてくれるボックスがあるのですが、その時にふと、「ああ、今日は郵便見なかったなぁ」と思い、その足で自分のボックスをのぞいたら、珍しく手紙が入っていました。宛名の字は見覚えのない字でしたので、「誰からかな?」と思って裏返しますと、そこにT・Nと書いてある。ある信徒さんからのお手紙でした。「一体何だろう?」と思って開けてみたら、「お元気ですか、学びは大変じゃないですか…」というような感じで短くお手紙が書かれていて、その最後に「これで本でも買って下さい」と書かれていて、見てみると、足りなかった分とちょうどピッタリ同じ金額が入っていました。

 その時、私は思わず心の中で叫んだのです。「神様、生きてる~~~!」。T・Nさんには申し訳ないのですが、「T・Nさん、ありがとう!」じゃなかったんですよ。考えてみればものすごく失礼な話です。しかも本を買って下さいって送って下さったのに、本を買わずにガラスを直してますし…。もちろん感謝を込めてお礼状を書きましたけれども、でも、その時本当に心から思ったんです。「神様生きてる!」って。

 きっとT・Nさんは私のために祈って下さり、その中で示されて、まさに「よいおこない」をしてくださったんです。でもそれによって、T・Nさんではなく、父なる神様があがめられた。私たちもまた、世の光として、神様のお役に立ちたい、神様に喜んでもらいたいと思って「よいおこない」に励むときに、そこに神様があがめられるという出来事が起こってくるのだと、信じて歩ませていただきたいと思うのです。

 

結び

 あらためて、イエス様が「あなたがたは、地の塩である」、「あなたがたは、世の光である。」と言ってくださったことを覚えて終わりたいと思います。イエス様は、「あなたは地の塩だったらいいね~」とはおっしゃいませんでした。また、「世の光になるかもしれない」「世の光になりなさい!」とはおっしゃらなかった。「地の塩で“ある”」「世の光で“ある”」と、もうすでに宣言して下さっています。イエス様がそう言われたということは、そういう者として、イエス様が責任を持って送り出して下さるということです。そのイエス様の宣言を心に留めながら、こんな自分だけれども、地の塩、世の光として生きていこう。ここから遣わされていこう。その思いを持って歩ませていただきたいと思います。