2018年10月14日のメッセージ

マタイによる福音書第5章9節~12節

 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、

 彼らは神の子と呼ばれるであろう。

 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、

 天国は彼らのものである。

 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

「平和をつくり出すさいわい」             

 

 

 さて、イエス様が語られた山上の説教からシリーズで学んでいますが、今日はイエス様が「○○な人たちはさいわいである」と語られたところの、最後の2つになります。「平和をつくり出す人たちはさいわいである」、そして、「義のために迫害されてきた人たちはさいわいである」、この2つをそれぞれ見ていきたいと思います。

 

1. 平和をつくり出すさいわい

 まず、9節から見てみましょう。あらためて記します。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。平和の大切さというのは、それは誰でもわかることですよね。小学校でも平和学習というのがあります。小学校の修学旅行で広島に行き、原爆資料館を見学したのですが、原爆の悲惨さを肌で感じ、二度とこのようなことがあってはいけないと思いました。誰でも平和を願う思いはあると思うのです。

 でも、イエス様は、「平和を願う人たちは、さいわいである」とは言われませんでした。「平和を愛する人たちは、さいわいである」でもありません。イエス様は、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と言われたのです。それは、国と国同士の戦争をするとかしないとかのレベルの話ではなくて、私たちがあらゆる人間関係において、平和をつくり出す者となっていくことが求められているのです。

 私たちは、日々様々な人間関係の中で生きています。家族であったり、友人であったり、職場の同僚や上司であったり、ご近所の方々であったり、様々な関係がありますが、それらの関係において、自分は平和をつくり出す者でしょうか。むしろ、自分の感情や言葉や行動が、争いを生んでしまっているようなこともあるのではないでしょうか。また、周りの誰かと誰かの関係がまずくなってきたときに、仲を取り持ってその関係を修復しようとするどころか、そこに巻き込まれないために、ちょっと身を引くとか、関わらないとか、そういうことを第一に考えてしまう自分の姿があるように思います。あらためて考えてみるならば、平和をつくり出す者とはほど遠い、自分の姿を見出させられるような気がします。

 ある牧師先生がいつも口癖のように言っておられたことあります。それは、「とにかくケンカをしないこと」でした。教会の中でも、人の集まりですから、意見が違ってぶつかり合いそうになることもあるでしょう。でも、とにかくケンカをしない。それがその先生から学んだことでした。しかし、それを実践するのは本当に難しいことです。時には、自分の感情を押し殺してでも、ぶつかり合いを避けなければならないのですが、人間自分が弱いものですから、自分を守るためについ言いたくなってしまう。言われて終わりじゃ悔しいから、言って終わりたい。そんなことばかりで、「ああ、自分って本当に平和をつくり出せないなぁ…」と心底思わされることがあります。

 しかし実は、そこが大切なところです。新約聖書の中には、平和、平安をさす「エイレネ」という言葉は、88回も用いられています。それこそ、どの書にも書かれていると言っても過言ではありません。しかしこの「平和をつくり出す人たち」という言い回しは、もとのギリシャ語では1つの単語で、聖書の中でたった一回、ここでだけしか出てこないのだそうです。「平和があるように」「平安があるように」と、祈ることはいくらでもできる。でも、「平和をつくり出す」ということは、まさにこの言葉を語られた張本人、イエス様にしかすることができないのです。

 ローマ書の5章1節で、パウロは「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」と語っています。イエス様はまず、ご自分の命をかけて、私たちと神様との関係に平和をもたらしてくださいました。自分では平和の“へ”の字もつくれないような、争いの種になってばかりの者です。でも、そのような者をあわれみ、そんな罪深い者を許して救うために、イエス様は十字架にかかってくださいました。他でもない、この私自身において、平和をつくり出してくださいました。

 でも、それで終わるわけではありません。「平和をつくり出す人たちはさいわいである。彼らは神の子とよばれるであろう。」とありますが、「神の子とよばれる」というのは、言い換えれば、「彼らは神のような働きをするであろう」という意味になるのだそうです。神様との間に平和をつくり出していただいた者は、今度はその神様の働きを、人との間にできるようになってゆくのです。そうやって、平和をつくり出す者とならせていただきたいと思うのです。

 

2. 迫害されてきた者のさいわい

 次に、8つのさいわいの最後になりますが、10節を記します。「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」。ここで取り上げられていることは、「迫害」ということです。「義のために」とありますが、これは「イエス様を信じる信仰のゆえに」と言い換えてよいでしょう。クリスチャンであることで迫害される。そういう者はさいわいだ、とイエス様が言われていますけれども、正直なところ、迫害されないことの方がさいわいですよね。クリスチャンだからということで馬鹿にされるとか、石を投げられるとか、もし、そんなことが実際に起こったら、とても自分がさいわいだなんて思えないと思います。

 このマタイによる福音書が書かれた時代は、クリスチャンだから拷問を受ける、殺されるということが実際に起こっていた時代でした。また、この日本の地においても、同じようなことが起こっていた時代がありました。少し前に遠藤周作の「沈黙」が映画化されて大変話題になりましたが、信仰故に恐ろしい拷問を受ける、そうやって信仰が問われてきたわけですが、しかし、今のこの平和な時代に生きる私たちが、その迫害ということをリアルに感じるというのは、残念ながら難しいことです。どちらかというと、「昔の人は大変だったなあ。でもそういう人たちのお陰で、今こうして信仰を持てているのだなあ。ありがたいなあ」と思うのが関の山だと思います。

 でも、あらためて、じゃあこのクリスチャンたちは、この厳しい迫害の中で何を握りしめ、何を目指していたのか、考えてみたいと思うのです。イエス様は、「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」と言われました。「天国は彼らのもの」です。以前もお話ししましたように、この天国とは「神の国」であり、「神の支配」ということです。私たちの目に映る世の中というのは、まさに人が、権力が支配する世の中です。そして、11節でイエス様が言われているように、それらに罵られ、悪口を浴びせられることもあります。でも、イエス様は語るのです。「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」のだと、神様の支配される天の御国の希望を語りました。迫害の中にあった人たちが、しっかりと握りしめてきたこと、そして私たちに渡そうとしているバトンというのは、まさにその“天の御国の希望”なのです。例え、どんな迫害があろうとも、どんなに否定されようとも、決して失われることのない、天の御国の希望がそこにあるのです。

 私たち日本ホーリネス教団の教会に属する者にとって、迫害や弾圧というのは、決して遠い人のことではありません。1942年(昭和17年)6月26日、全国のホーリネス系の教会が、治安維持法の下で特高刑事によって捜索され、多くの牧師が一斉検挙されました。当時の教会は、当局の監視下におくために、すべての教団が日本基督教団としてまとめられていたのですが、その第九部の部長だったのが、当時すでに神戸で牧師として奉仕しておられた、齋藤源八先生でした。

 源八先生のことが「ホーリネスバンドの奇跡」という本に書かれています。源八先生は東京に移送され、代々木署に1年、巣鴨拘置所に1年留置されたそうです。その間、満足な食事も与えられず、たまたま近くにいた親戚の差し入れが無ければ、生きておられなかっただろう。そんな状況でした。源八先生は何とか生きながらえて保釈されましたが、捕まった先生方の中には、そのまま獄中で天に召された先生もおられました。

 保釈後、源八先生の裁判が行われました。罪状は治安維持法違反ということなのですが、どのようなことが罪と問われたか、ご存じでしょうか。敵国英米の宗教を信じるなどもってのほかだ!ということでしょうか。実は、そこで問われたことは、再臨信仰でした。お前たちは、再臨のイエス様が王としてこの地上に来られると言っているけれども、その時に天皇とキリストの立場はどうなんだ。その再臨信仰によって国体変革をもくろみ、皇室の尊厳を否定した。それが国家反逆罪だと問われたのです。しかし、源八先生は、「天皇か、キリストか」と問われる中で、決して妥協しませんでした。結局、最終的な判決が出ないまま終戦を迎え、先生は解放されました。

 豊中の教会には、その源八先生から洗礼を受けられた方もいらっしゃいます。箕面の教会にも、源八先生のことをよく知っておられる方がおられるかもしれません。そんな身近な時代に、再臨の希望、天国の希望によって迫害された事実があるのです。でも、そこでその希望を握り続けて、守り続けてくださった先輩たちがいる。私たちは、そのバトンを受けついで、天の御国の希望に歩みたいと思うのです。