2018年9月23日のメッセージ


マタイによる福音書第5章7節~8節

あわれみ深い人たちは、さいわいである、

彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、

彼らは神を見るであろう。

 

「神を見る者」                          

  

 先日開催された青年キャンプでの出来事なんですが、夜になってお風呂のお湯をはっている時に、急にお湯の出が悪くなりました。裏の貯水タンクを見てみると、貯まっているはずの水が今にもなくなりそうです。あわてて水源地に行ってみると、取水口のところが軽くつまっていて、そのせいで水が流れなくなっていたようでした。そのつまっていたものを取り除いたら、水が流れ、また貯水タンクに水が貯まり始めました。大事になる前でよかったなあと思ったのですが、私たちも、日々の生活の中にあって、様々な問題が起こってきます。でも実は、その原因は、このように本当に些細なことかもしれません。私たちは、この礼拝で神様に気付かせていただき、今日もその些細な問題を取り除いていただいて、ここから遣わされていきたいと思うのです。

 

 さて、イエス様の語られた「山上の説教」から学んでいますが、特に3節から10節に書かれている、8つの「○○な人たちはさいわいだ」というところから、二つずつ取り上げて学んできました。実はこの8つは、最初の4つと後半の4つに分けることができると言われています。前半の4つが“神様”に対する姿勢を表すのに対して、後半の4つは、“人”に対しての姿勢を表しているといわれています。今回は、その後半の2つ、「あわれみ深い人たちはさいわいである」ということと、「心のきよい人たちはさいわいである」ということについて、それぞれ考えてみましょう。

 

I. あわれみ深い者のさいわい

 まず、あわれみ深い者のさいわいについて考えてみましょう。7節を読みますと、「あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう」とあります。これは、それこそ聞いてそのとおりだと納得するのではないでしょうか。「あわれみ」という言葉を辞書で引くと、「かわいそうに思う心、慈悲、同情」と出てきますから、「あの人かわいそうだ」と、慈悲の心を持ったり、純粋に同情できたりする人は、確かにさいわいだと言えるかもしれません。それこそ「慈悲」ということならば、仏教の教えでも言われることですので、イエス様だけが語られた特別なことではないと指摘されたとしても、当然だと思うのです。

 でも、「あわれみ深いのが大事だよね」ということには完全に同意しながらも、「あなたがあわれみに生きなさい」と、具体的に問われたとするなら、私たちは「ウッ…」と思わされる部分もあるのではないでしょうか。加藤常昭という先生が書いておられましたが、ある有名な牧師先生が、58歳の時の日記に、自分の妻の美点を挙げておられたそうです。第一は、夫についての不満を人に漏らさないこと、第二は、教会員を公平に扱うこと、そして第三に聖書を教えることができるなど、四つの長所を述べた後で、たったひとつの欠点を書いたそうです。「夫に対する同情がない」。夫についての文句を他人に言わない点はいいんだけれども、肝心のその夫に対する同情を欠いているというのです。もっとも、このことを妻に言うと、妻は即座に答えたそうです。「それはこちらの言うべきことです」。

 こっけいな話ですが、もう何十年もつれそった、しかも牧師の夫婦であっても、お互いに同情してくれないと思っていたわけです。お互いに、健全にあわれみに生きることができない。これは決して、ひとごとではないように思われます。しかも、ここでの「あわれみ」ということは、イエス様がお話になっていたヘブル語を見ていきますと、「胎、子宮」ということを意味します。女性が赤ちゃんを身ごもっていく器官のことです。胎や子宮は、実は身体の中で、唯一、他者のために存在する器官なのだそうです。そのため、どんな相手であっても自分の内の深くに受け入れる、抱き続けるという意味になるだけでなく、自分の血と肉、命までも分け与えることをも意味するのだそうです。自分がそのようにして誰かのことをあわれむことができるのだろうか。そう考えると、「自分には無理です…」としか言えないように思えてしまいます。

 しかし、イエス様は言われました。「彼らはあわれみを受けるであろう」。あわれみ深く生きようと、私たちがどんなに頑張ってみても、私たちはどこまでも自己中心であって、心から人に同情し、そのあわれみに生きる道を全うすることはできません。でもそうやって、あわれみに生きようとする者は、自分のあわれみのなさを思い知らされて終わるのではなくて、その自分が神様にあわれまれていることに気付くことができるのだというのです。「あわれみ」とは、実に、イエス様そのものです。イエス様こそがあわれみのお方であり、私たち一人一人をあわれんで下さっているのです。私たちがどんなに罪人で、どんなに神様をないがしろにしようとも、私たち一人ひとりを、ご自分の内に深く抱き続けて、命まで分け与えてくださいました。

 このイエス様のあわれみを受けてこそ、私たちはあわれみに生きることができるようになるんですね。大事なことは、この神様の側のあわれみに自分自身が触れてゆくことです。あわれみの神様を、聖書の言葉をとおして見出してゆくのです。この聖書は、「神様は、他でもないあなたをあわれんでいるんだよ」ということを私たちに見出させて下さる書物なのです。そういう意味で、私たちは「神を見る」者であらせていただきたいと思うのです。

 

II. 心の清い者のさいわい

 次に、「心の清い者のさいわい」ということについて考えてみましょう。これはどうでしょうか。心が清い者はさいわいだと言われて、素直に「はい」とうなずけるでしょうか。確かに心が清いとは良いことだ、大切なことだというのは分かります。また、私たちは、ホーリネス教団、きよめを看板に掲げる教団の教会ですから、そこに集う私たちもきよくあるべきなのでしょう。しかし、じゃあ自分がそうであるかというと、胸をはって「私はきよいです、だからさいわいです!」とは、口が裂けても言えないように思うのです。それこそ、もし、そういう人が隣にいたら、「それが言えてしまうことが傲慢だ!どこがきよいのだ!」と、断罪してしまいます。そしてそう断罪する、その心こそが一番「きよくない」かもしれませんね。

 では、ここで言っている「きよさ」とは、どういうことを意味しているのでしょうか。あらためて見てみますと、イエス様は「心の清い人たちは」と言われています。行動が清いとか、言葉が清い、ではありません。問われているのは「心」なんですね。でも、それは、実際の行動や言葉はどうでもいいと言っているのではありません。確かに心というものが指す部分は、自分自身の奥底、内部にあるものですけれども、内と外が別々なのではなくて、そこが清くなれば、体も言葉も行動も、まるごと清くなっていく。そういうところを指しているのだといっているのです。

 そして、その「清い」というところに使われているギリシャ語の“カサロス”という言葉は、本来は「清潔である」ことを意味しました。汚れていないということです。しかし、その意味だけではなく、脱穀してもみがらが取り除かれた、穀物のことを言う場合にも用いられました。さらにそこから、兵隊の中でもふるいにかけられた精鋭部隊を指すようになったと言うんですね。そして、さらに、水増ししない牛乳やお酒、化合物のない純粋な金属を指す場合にも用いられました。カサロスは、「混ざり物のない、うすめられていない」という意味にもなったのです。

 ですから、ここで言われている清さとは、「動機が常に純粋である人はさいわいである」ということなのです。神様が大好き。神様を知りたい。神様に喜ばれたい。神様のお役に立ちたい。心に何のひだもなく、本当に純粋に、単純バカと言われようとも、この神様を信じてこの神様を求めて歩もうとする者。それが心のきよい者なのです。でもそれは、実のところとても難しいことでもあります。というのも、私たちはなかなかそこまで純粋ではないからです。いろいろな下心があったり、「神様信じて本当に大丈夫なの?」というような、疑いの種を持っていたりするのではないでしょうか。

 以前遣わされていた教会では、礼拝の後にお茶をいただきながら、説教の感想を分かち合ってお祈りする、コーヒータイムという時間を持っていました。その時にいつも必ず残っていた一人のおじいちゃんがいまして、その方がことある毎に、口癖のように、「そうはいっても、現実はね…」っていいながらいろいろ話し始めるのです。長年、信仰を持っている方ですし、忠実に教会生活を送っておられる方です。でも、例えば礼拝で、「神様は必ず祝福して下さる」と聞いても、なかなか思い通りにいかない毎日があるものですから、「そうはいっても…」って言いたくなるのだと思うのです。とはいえ、そのおじいちゃんも、悲壮感や卑屈な感じが全くなくそう言われるので、聞いている方は「また言っておられるなぁ」と、ついニヤニヤしながら聞いてしまうのでした。私たちにも同じ部分があるように思います。純粋に、単純に信じられない自分の現実がある。純粋さがない自分を発見させられます。

 しかし、神様はその純粋な思いさえも、与えて下さるお方です。旧約聖書の詩篇51篇10節には、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と書かれています。私たちが清い心でありたいと願う。心から願う時に、神様が与えてくださるのです。

 ですから、私たちは清い心をもって歩みたいと思うのですが、さて、どこから手を付けていきましょう。いろいろ考えられますが、まず、礼拝において、私たちの清さを考えてみませんか。というのも、旧約聖書をひも解いていきますと、イスラエルの民が清さを問われたのは、特に礼拝においてなのです。心から神様を礼拝したい。神様のお役に立ちたい。御言葉は自分を救う力がある。私たちが、礼拝をささげるときに、その自分の心の動機の純粋さを探り、そのことを神様に与えていただくよう祈っていきたいと思うのです。

 そのような者こそ、「神を見るであろう」とイエス様は言われました。その純粋さの中でこそ、今、御言葉を通して神様に出会うことができる。神様が分かる。その意味もありますが、実はこの言葉は未来形で書かれています。聖書には、2千年前に天に昇ってゆかれたイエス様が、同じようにして再びこの地上に来て下さる、再臨の時がやってくると記されています。やがてイエス様が再び来られるとき、私たちは神様を見ることができる。そして、その神様の導かれる、永遠の神の国に迎えていただくことができる。神様のあわれみを知り、純粋に神様を求めて生きる礼拝者の歩みは、まさにその永遠の神の国につながる歩みなのです。今週一週間も、共にその歩みを歩ませていただきましょう。