マタイによる福音書第5章5節~6節
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
「応えて下さる神」
先日は、台風21号がこの関西にも大きな被害をもたらしました。皆さんのお宅は大丈夫だったでしょうか。豊中の教会では、火曜日から土曜日まで停電が続いたそうです。あの停電で、礼拝堂のエアコンの一台が、エラーが出て動かなくなってしまいました。なかなか連絡がつかなかったのですが、やっと連絡がついて修理の方が来てくださいました。原因は、停電から復旧した時の電圧が不安定で、それによって室外機のマイコンが一時的に不安定になってしまったのだそうです。一度リセットしたら元通りの冷風が出るようになりました。
私たちの日常生活でも、私たちを不安定にさせる様々な出来事があると思います。ですから、一度立ち止まってリセットすることで、自分を正常に戻す時が必要だと思うんですね。まさに、この礼拝で神様の御言葉によってそうさせていただきましょう。
今回は、「○○な人たちはさいわいである」というシリーズの3回目になります。1回目では、ここでのさいわいとは、地上のいろいろなもので左右されるさいわいではなく、天上のさいわいであると学びました。今回は、その天上のさいわいの3番目である「柔和な者のさいわい」と、4番目の「義に飢えかわく者のさいわい」を取り上げながら、「応えて下さる神」と題してお話しいたします。
I. 柔和な者のさいわい
まず、柔和な者のさいわいについて考えます。5節をあらためて読んでみましょう。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」。皆さんは柔和な人と聞いて、どのような人を思い浮かべますか。いつも穏やかで、人当たりがいい。ソフトな感じ。やさしい。そんなイメージでしょうか。聖書はもともとギリシャ語で書かれていますが、「柔和」と訳されたギリシャ語も、やはりそのような意味です。特に人との関わりにおいて、力でごり押ししない、そうしたくなる思いが起こっても、それを押さえることこそ、“柔和”ということでした。
でも、イエス様はユダヤ人でしたから、実際にイエス様が話されたのはギリシャ語ではなく、ヘブル語のひとつであるアラム語という言葉です。実はヘブル語では、これは“欠乏”や“みじめさ”を意味する言葉、逆境にあることを指す言葉でした。そして、そこで嘆きわめくのではなくて、耐えるのです。じっと忍耐する心です。しかも、神様を待ち望んで忍耐するということを意味していました。
私たちが生きている実際の世の中は、悪をなす者、不義を行う者だらけですね。ずるいことをしている人が栄えたり、正直に生きている人がかえって馬鹿を見るようなことがよくあります。そういう理不尽さに悩まされ、時には「何で私だけ…」と、ねたみを起こすこともあります。イエス様がこの山上の説教を語られた当時、イスラエルの国はローマの支配下にありました。まことの神様を信じているはずの自分たちが、偶像を信じる者に虐げられているという歯がゆさ。まさに、社会全体がその理不尽さを感じていました。その中では、自分の正しさを守るために力を用いることは、当然、許されることのようにも思います。
でも、ここではその力を用いるのではなく、やさしさに生きよ、それが柔和な者なのだと語られています。だとすると、これはなかなかしんどい生き方な気がします。「何があっても我慢しなさい」と言われているようで、それでは心からの感謝や笑顔で過ごすことはできない感じがします。なぜ、その生き方を選んでいくのか。5節の後半には「彼らは地を受けつぐであろう」とあります。力を用いず、やさしさに生きる者は、「地を受けつぐ」のです。
ここでは、「天を受けつぐ」とは言っていません。「この世でいろいろあっても大丈夫、神様は全部わかっているから、天国ではちゃんと報われるよ!」ならば、「天を受けつぐ」です。しかし、そうではない。「地を受けつぐ」んです。地とは、まさに今、自分たちが生きるこの現実の生活において、ということです。神様は、そうやって柔和の道を選び取ろうとする者に、ちゃんと応えて下さる、神様のあり方で必ず報いて下さる、そう約束しておられるのです。
なぜそう言えるのでしょうか。実は、マタイは、「柔和」という言葉を、この箇所と、あと2箇所しか使っていません。一つは11章の有名なお言葉、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」のあと、「わたしは柔和で心のへりくだったものであるから」と、イエス様がご自分を指して言っておられます。そして、イエス様がエルサレムに入城される時、その様子を指して、「柔和なおかたで、ろばに乗って」と言っている。どちらもイエス様を指しているのです。
柔和に生きろというけれども、実は本当に柔和に生きたのは、他でもないイエス様です。どんなに理不尽な目に遭わされても、すべてを甘んじて受け入れ、十字架の死に至るまで従順でいてくださった。そしてイエス様は、この地上において、復活という素晴らしい祝福の道を開いてくださったのです。このイエス様を通して、私たちは、柔和に生きる者に神様がちゃんと応えてくださることを経験できるのです。
II. 義に飢えかわく者のさいわい
続いて6節の、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」を見ていきましょう。皆さんは、自分が何かに飢え渇いていると感じることがありますか。「今日は朝ご飯を食べていないので、今まさに私は飢え渇いています…」という人もおられるでしょうか。
ここでの飢え渇きとは、「義」に対する飢え渇きです。義に飢え渇くとはどういうことでしょうか。ここで言われている「義」、正しさというのは、もともとの聖書の言葉の意味から考えていきますと、神様と人との間の問題です。まず根本的に言えることは、「義」とは神様ご自身のご性質です。神様こそが義なのです。そして、その神様との正しい関係にある人の特質、それが「義」ということなんですね。
さらに、神様に対する私たちの義ということについては、二つの面があります。ひとつは、救われたときの「義認」と言われる恵みです。これは私たちの罪のために十字架で命をなげだしてくださったイエス・キリストを信じることで、神様から与えられる恵みです。自分の罪を認めて心から悔い改め、しかし、その罪のためにイエス様が十字架にかかって下さったと信じるとき、神様は私たちを義と認めてくださいます。しかも、この義と認めるというのは、「悪いことしたけどゆるしてあげる。でも、あなたは前科何犯です」ということではなくて、今まで一度も罪を犯したことがない者として神様が受け入れてくださると言うことなのです。
そしてもうひとつは、聖化、きよめと呼ばれる神の恵みがあります。ここでの義というのはまさにそのことですね。私たちは確かに神様に義と認めていただいた。でも現実には、自分の心の内をのぞくとき、あるいは、自分の実際の生活を顧みるとき、とうてい義とはいえないような罪人の姿がある。でもそれを「しょうがないよ…」とあきらめてしまうのではなく、自分の実生活も神様の義にふさわしい者として、きよめられ、正しい者とされ、イエス・キリストの御姿に似た者となることを求めていく。それがここでの、義に飢えかわいている人ということなのです。
主の祈りでは、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。毎日のごはんのことも祈って良いのでしょう。でも、イエス様は、「義に飢えかわきなさい。義とされることをとことん求める者は、何とさいわいなことか!」と強く招いておられます。なぜなら、そうやって求める者は、「飽き足りるようになる」からなんです。つまり、求めれば求めるほどに、神様がこのきよめの恵みを私たちにわかるように与えて下さると言っているのです。
私たちが義を求めて祈る中でいつもぶち当たるのは、自分の本性、罪人の姿です。本気でそこに向き合うときには、それこそ立ち上がれないようになってしまうくらい、落ち込んでしまうこともあります。しかし、そのただ中で私たちは、「でも、この罪のためにもイエス様は十字架にかかってくださったんだ」と、その自分の罪の持って行き所を持つことができます。そして、イエス様の御言葉によって、ゆるしをいただくことができるのです。そのゆるしに限界はありません。求めれば求めるほどに、与えられます。神様は、私たちの義とされたいという思いに、応えて下さるお方なのです。
私たちは、柔和に生きること、そして、義に生きることにおいて、とことん神様に求めていきましょう。神様もまた、私たちの求めにとことん応えて下さいます。