2018年9月9日のメッセージ


マタイによる福音書第5章3~4節

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

 

「心に神を!」

 

 先週は台風21号の影響で、この大阪でも多くの被害が出ましたが、皆さんのお宅は大丈夫だったでしょうか。実は、みのお泉キリスト教会と同グループに所属する豊中の教会は、火曜日の午後2時頃から停電となり、なんと4日間も停電が続きました。そのような長い期間、暗い中で、電池で光るランタンを点けて過ごすことになるとは思いもしませんでした。あらためて、当たり前のように電気が使えることが、こんなにもありがたいことなのだだと思わされました。また、北海道では大きな地震がありましたので、被災された皆さんに神様の慰めとお守りがあるよう、祈っております。

 今回のメッセージは、イエスさまの語られた「山上の説教」から学ぶシリーズの第2回です。特に「マタイによる福音書」第5章の3~10節のところでは、「○○な人たちは、さいわいである」ということがくり返されていますが、この「さいわい」とは、この世の何者にも左右されない天上のさいわいであり、「あなたこそ、さいわいだ!」と語って下さるイエス様の声を聞いて受け入れるところから、私たちもこのさいわいに生きることができると学びました。

 今回からは、その「○○な人はさいわいだ」というところを2つずつ取り上げて、共に考えていきたいと思っています。

 

I. 心の貧しい者のさいわい

 まず最初に、3節の「心の貧しい人たちは、さいわいである」ということについて考えていきましょう。私はこの表現に、何となく違和感を感じてしまいます。それは、「貧しい」という言葉と「さいわい」という言葉が結びつきにくいからじゃないかと思います。やはり何やかや言っても、貧しい人よりも豊かな人の方がさいわいだと思ってしまいませんか。テレビで見るような大金持ちでなくてもいいけれど、衣食住が満たされ、欲しいものが手に入る。生きてゆくのに心配のない収入があって安心して生活できる。それこそ、「人並みのしあわせ」ということですよね。

 また、「心が貧しい…」ではなくて、「心が豊かな人はさいわいだ」と言われたのであれば、しっくりくる気がします。人を思いやる心、命を尊ぶ心、自然や美しいものに感動する心。そういった感性が豊かな心の持ち主はさいわいだ。確かにそうかもしれません。もし、そういう意味で心が豊かでないならば、さいわいとは言えないし、むしろ迷惑な気もします。

 では、イエスさまがここで言われている「心の貧しい者」とはどういう意味なのでしょうか。まずここで言われている「心」という言葉は、本来は「霊」と訳されている言葉です。そしてこの霊というのは、当時のユダヤ人の考えによれば、肉体の内側にある、魂よりもさらに内側、人という存在の一番奥底にある部分を指すのだそうです。創世記2章を見ると、「人は神さまの命の息を吹き入れられて生きた者となった」とあるんですが、この「息」と「霊」とは同じ言葉です。私たちの奥底には、神さまが占めるべきところがあるのです。その「霊」が「貧しい」。この貧しいという言葉は、人と比べて比較的貧しいというようなことではありません。全く何にもないという意味の言葉です。ですから、心が貧しいとは、心の奥底の、神さまの占めるべきところが空っぽということなんです。

 有名な言葉なので、お聞きになったことがあるかと思いますが、パスカルという人は、「人間の心の中には、神によってしか埋められない空間がある」と言いました。時に人は、その心の空間をいろいろなもので埋めようとします。それこそ、お金であったり、衣食住の豊かさであったり、家族や友だちといった人との温かいつながりであったり、何かをやり遂げた達成感や自信、誇りであったり、様々なもので埋めようとするんですけれども、それでは埋まらないんですね。そういうことをするのではなくて、自分の心には、神さましか埋めることのできない穴がある。そこが空っぽだ。その事実をちゃんと受けとめた人。それが、心の貧しい者であり、イエス様は、そういう者は何てさいわいなんだ!と宣言するように言われたのです。

 本当にそれはさいわいでしょうか。そういう自分の空しさというものは、本当は認めたくないですよね。自分は豊かだって思いたい。でも、そのことを認めることができる者はさいわいだと、イエス様は言われている。なぜならば、「天国は彼らのものである」からです。そういう人が、天国を手にすることができるというのです。この「天国」という言葉は、マタイが使っていますけれども、イエス様は、宣教活動を始めた時に、「悔い改めよ、天国は近づいた」とメッセージされました。マタイは、神という表現を極力使いたくないユダヤ人でしたから、「神の国」を「天国」と言い換えたのです。そして「神の国」とは、「神の支配」という意味です。すなわち、神さまの支配が及ぶ者として生きてゆくことができるようになるということです。

 自分には神様が欠けている。それがとっても空しい。そう思える人を神様は放っておかれません。「あんた、それではあかんやないか!」と責められるのではない。そのような者の心の内に入って下さって、一人一人と共に歩んで下さるんですね。クリスチャンになったということは、この神様が、あなたの心の奥底の大事なところに住んで下さって、あなたの人生を導いて下さっているということなのです。皆さんは、心に神がある者として歩んでいるのです。そのことを確認させていただきましょう。

 

II. 悲しむ者のさいわい

 次に、「悲しんでいる人たちは、さいわいである」ということについて考えてみましょう。これも、どう考えてもおかしいですよね。我が家は、NHKの朝ドラにハマっているんですが、この3月までやっていたのは『わろてんか』という番組でした。つらい時も、悲しい時も笑うんや。わろてんか。そうです、さいわいなのは、悲しんでいる人ではなくて、喜んでいる人ですよね。普通はそう思います。なのに悲しんでいる人がさいわいだなんて、イエス様は一体何を言いたかったのでしょうか。

 皆さんはどんな時に悲しいでしょうか。人の言葉や行動で傷つけられた時でしょうか。受験で落ちたとか、願ったことが思い通りにいかなかった時。愛する人と死別した時。飼っていたペットが死んだ時も悲しいでしょうね。いろいろな悲しみがあると思いますが、実はここで言っている悲しみというのは、私たちが思い描く悲しみとはちょっと違うんですね。ある本では、こういう表現をしていました。「私たち人間が普通に経験するような意味ではなく、神の視点における『悲しみ』という意味であり、神の『深い嘆き悲しみ』なのです」。つまりここでの悲しみとは、神さまの悲しみを、自分も同じように悲しむということを意味しているわけです。

 では、神さまの悲しみとは、一体どんな悲しみなのでしょうか。一つには、それは「罪」に対する悲しみということです。悲しみと一口に言っても、いろんな重みがありますよね。なんかちょっと悲しい…ということもあれば、じわじわ涙が出てくる悲しみもあります。また、それこそ絶望的に思うような、叫び声を上げてしまうような悲しみもあります。実はここでの悲しみとは、その一番重い、激しく泣き叫ぶような、絶望的な悲しみを指している言葉なのです。神様は何に対してそんなにまで悲しんでおられるのか。それは、私たちが罪に捕らわれて生きている、その姿に、そこまで悲しんでおられるのです。普段生活していると、私たちはすぐに感覚が麻痺してしまうのですが、神様から心が離れ、自分勝手に生きる者は、心が罪に捕らわれて生きてしまう。本当はそのままであるならば永遠の滅びに至るしかないのに、その現実を見ようとしないで日々過ごしている。神様にとっては、その現実が本当に悲しいのです。私たちは、そういう罪の現実の中に自分がいることと向き合い、その自分の罪について悲しむこと。罪と向き合うことについて、神さまと同じ感覚を持つことが求められているんですね。

 正直、それはつらい経験です。それがさいわいだとは、なかなか思えないでしょう。聖書を読む度、教会に来る度に、「お前は罪人だ!自分の罪を認めろ!」と迫られるのだとすれば、それはとても悲しいことです。教会に来たくなくなるかもしれません。でも、実は忘れてはならないもうひとつの悲しみがあります。

 岩淵まことさんというクリスチャン・シンガーがおられますが、その方が「父の涙」という曲を作られました。こんな歌詞です。

 

♪心にせまる父の悲しみ

愛するひとり子を十字架につけた

人の罪は燃える火のよう

愛を知らずに今日も過ぎて行く

十字架からあふれ流れる泉

それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉

それはイエスの愛♪

 

 父なる神さまの悲しみ、それは、罪に捕らわれた、悲しみの中を歩む私たちのために、ひとり子イエス様を遣わし、そのイエス様を十字架にかけてくださったことです。この神様の悲しみも、私の悲しみとするんですね。それはつまり、罪人の私のために、イエス様が十字架にかかってくださったと信じ受け入れることです。このイエス様の十字架による罪のゆるしがあるからこそ、私たちは、たとえ罪によって絶望的に悲しむ者であったとしても、「彼らは慰められるであろう」、罪のゆるしという慰めをいただくことができるのです。罪を罪とし、ゆるしをゆるしとして信じ続けることで、神様の御思いを心に抱かせていただきましょう。

 

 私たちは、心の一番大切な奥底を、神様に埋めていただいている者です。そして、そのお方によって、罪のゆるしをいただいている者です。心にこの神を抱いて、今週も歩みたいと思うのです。