2018年7月29日のメッセージ

マタイによる福音書第5章1~10節

「幸いなるかな」                      

  

 ずいぶん前の曲ですが、ウルフルズというバンドがありまして、その名もズバリ、「しあわせですか」というタイトルの曲がありました。その曲では、「幸せですか?挨拶代わりに申します。幸せですか?単刀直入にたずねます。」という歌詞が、何度もくり返されていたのですが、どうでしょう。単刀直入に「あなたは幸せですか?」って聞かれたら、どのようにお答えになりますか。「もちろん幸せです!」とお答えになる方もおられるでしょうし、「家族みんな元気やし、夫婦円満やし、幸せっちゃあ幸せかなぁ。まあでも悩みもあるしなぁ、幸せ、とは言い切れへんかもなぁ。悩むところやなぁ…」という方もおられるかもしれません。

 今回の聖書の箇所は、イエス様が「さいわい」、幸せということについて語っておられる箇所です。「○○な人たちはさいわいである」と、8つのことを挙げておられます。しかも、ここでイエス様が言われている「こういう人はさいわいだ」というのは、私たちが思い描くさいわいとは、かなりの違いがあります。今回はその一つ一つをみていくというよりも、この箇所全体を通じて、2つの点について考えてみましょう。

 

I. 天上のさいわい

 まず、「天上のさいわい」ということについてお話しいたします。過去の文語訳聖書では、「幸福(さいわい)なるかな、○○」と、それぞれの文の最初に「幸い」が来ていました。実は、もともとこの聖書が書かれたギリシャ語でも、「幸いだ」というのが最初のところに来ています。ある英語の翻訳では、頭に「Happy」がずらっと並びます。でも実は、「Happy」よりも多くの翻訳で使われているのが、「Blessed(ブレスト)」という言葉です。そのまま訳すと、「祝福されている」ということです。ある英語の聖書の欄外注によりますと、この「Blessed」は「Happy」よりもより深い意味を持っているとあります。

 加藤常昭先生という牧師先生が、この言葉についてこのように書いておられました。ここで「さいわい」と訳されているギリシャ語は、もともとギリシャの神々のことを語るのに用いられた言葉なのだそうです。この地上では様々な苦しみや悲しみがあるけれども、そのただ中にいる人間が、それとは無縁の、天上にある神々の生活を想像する。その天上の神々のさいわいを呼ぶのに、この言葉を使っていました。しかし、それが、やがて人間に対しても用いられるようになった時に、「あの人は天の神々に匹敵するほどのさいわいに生きることができた」という意味で用いられるようになったのだそうです。ですから、ここで言われている「さいわい」というのは、私たちの想像をはるかに超えた、天上のさいわいを指しているのです。

 1節を見ると、イエス様は「この群衆を見て、山に登り」とありますから、そこに集まってきた人々に語っておられることがわかります。この群衆は、第4章の最後のところから考えるに、「いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者」たちでした。貧しさや、悲しみ、飢え渇き、理不尽な圧迫などの中にあって、まさにさいわいとは真逆の者たち、地上の悩みや苦しみのただ中にいた者たちでした。でも、そんな彼らが、日々の戦いから離れて山に登り、イエス様を仰いで説教を聞くその目線は、まさに天上のさいわいに向けられていたのではないでしょうか。

 私たちはつい、あれがあれば幸せ、これが幸せの条件などと考えたりします。2014年に、ある会社が、『幸せについてのアンケート調査』というものを実施しました。その中で、「幸せのために必要な要素は何か?」、という質問があったのですが、トップ3は何だったと思われますか。その調査では、1位が「収入」、2位が「健康」、3位が「精神的なゆとり」となっていました。

 このアンケートでは、20代・30代など、各年代別の結果も出ているのですが、男性は各年代で「収入」が1位、「健康」が2位でした。しかし面白いことに、女性の方は、多くの年代で「健康」が1位、「精神的なゆとり」が2位です。男性が上位にあげた「収入」は3位でした。そして、男性は3位に「配偶者・パートナー」を挙げている年代が多いのですが、女性ではトップ3に、この「配偶者・パートナー」は全く入ってきません。妻にとって、夫はむしろ自分のしあわせを妨げる存在なのでしょうか。女性の皆さんどう思われますか(苦笑)。

 それはさておき、このアンケートで皆さんがイメージしたさいわいというのは、結局のところ、お金や健康、心の問題で左右される程度のしあわせ、ということです。でも、イエス様が与えてくださる「さいわい」というのは、その程度のものではないのです。イエス様は、この世の苦しみにも悲しみにも縛られることのない、天上のさいわいを与えてくださるということを、まず覚えさせていただきましょう。

 

II. あなたはさいわいだ

 次に、「あなたはさいわいだ」ということでお話ししたいと思います。2節では、「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とあります。ここに「口を開き」とありますが、これはもともとのギリシャ語をみますと、口の動きを表す以上の意味があるのだそうです。

 二つの意味があるそうで、まず一つは、厳粛な、真剣な、権威ある発言を述べる場合に使われ、「重みのある言葉」という意味になります。そして、もう一つは、「人が心を開いて思っていることを伝える」ときに使う言葉だそうです。それは、心と心のふれあいの中で、親しく教えるという意味です。ですから、このイエス様の山上の説教というのは、それだけ重みのある、イエス様の正式な教えであるということ。そして、イエス様が弟子たちに対して、ご自分の心を開いて話しておられることなのです。それほどまでに、真剣に、そして真実にイエス様が語っておられるメッセージであるわけです。

 ある本では、このイエス様の「さいわいである」というのは、普通に説明を述べる言葉ではなくて、感嘆文だとあります。イエス様は、「ああ、なんて幸いな者なんだ!」と、心から言われたのです。でも、実際に目の前にいる人たちはどうだったでしょうか。当時の圧政に苦しみ、病をかかえ、理不尽な扱いを受けていたり、慰めを必要としていたりする者もいました。中には自分の罪深さに嘆き悲しみ、清さを求めている人もいたことでしょう。とうてい、「ああ、なんて幸いな者なんだ!」と言われるにふさわしい者ではありませんでした。それこそ、天上のさいわいとはかけ離れた、地べたを這いつくばるような日々を送っていた人たちでした。けれども、そのような中に生きる人たちに、「私についてくる者はさいわいなのだ!」と、イエス様が叫び声を上げて下さっているのです。

 私たちのなすべき事は、今ここにおいて「あなたはさいわいだ!」と断言してくださっているイエス様の叫び声を、しっかりと聞き取ることなのではないでしょうか。私たちが本当にさいわいな者として生きることができるかどうかは、このイエス様の言葉を、私に語られている言葉と信じて受けとめることができるかどうかにかかっているのです。

 あるクリスチャンが、学生時代に出身教会で賛美グループに入っていたんですが、その賛美グループが自分たちのオリジナルの賛美を録音して、CDを製作したそうです。その中の一曲に、まさに今回のこの聖書の箇所にある「さいわい」を歌った曲があるのです。その曲の歌詞では、「あなた あなたは さいわいだ」ってくり返しています。今日の聖書の箇所には「あなたは」とはどこにも書かれていないのですが、「あなたはさいわいだ」と歌うのです。これは、この御言葉に込められたイエス様の思いをきちんと表している表現だなあと思わされます。「○○な人はさいわいだ」というのは、自分とは関係のない、あの人、この人のことを言っているのではありません。イエス様が、他でもない、この私に心を開き、この私に向かって、「あなたはさいわいだ」と言っておられることを、心から信じようではありませんか。

 

日々の生活に遣わされている皆さんには、それぞれに様々な現実の課題があることでしょう。痛みや苦しみ、悩みもあるでしょう。でも、イエス様は、あなたに向かって、「あなたはさいわいだ」と語っておられます。そのイエス様の言葉を聞き、「そうです」と心から信じて受け入れる時に、この世の移ろいやすいさいわいではなく、天上のさいわいに生きることができるのです。そのことを信じて、今日もここから遣わされてまいりましょう。